2013年4月30日火曜日

カンボジア:プノンペン ポル・ポト派による大虐殺①

このページを開いてくれた皆さん、ありがとうございます。
アジア旅から帰って一と月が経ちました。
日記を書いていると旅を思い出します。
さて、今回はカンボジアで起きたポル・ポト派の大虐殺の史跡を数回に渡ってレポートします。
掲載写真、とても強烈です。骸骨や血の写真が出てきます。
この地で見たものは僕に強い印象を残しました。
施設を歩いていると、こんな二元論的な考えが頭に浮かびました。
「人間は、幸福を追求し、未来へ邁進する傍らで、
絶対的な不幸をも視野に入れていないといけない。」
つまり、豊かな国の人々こそ深く、世界の不幸に取り組む必要があるのです
当時を体験しない僕が異国の惨劇について主観で書くため、
専門的な見識をお持ちの方からの批判もあるかもしれません。
ですが、この旅日記は読者に世界への関心を深めてもらうことを目的にしていて、
その目的に向けて、自分なりに苦悩しながら書いています。
その点、ご理解いただきますようにお願いします。
また、歴史事実の誤認等があればご指摘いただけると幸いです。

大嶋敦志


S21(トゥールスレーン収容所)規則
.質問に対して、きちんと返事をすること。ごまかしてはならない
2.事実を隠蔽してはならない。尋問係を試してはならない。
3.革命の邪魔をしようなどと愚かな考えを持たない。
4.聞かれたことには即座に答える。
5.背徳も反逆も認められない。
6.電気を受けている最中に泣いたり叫んだりしてはならない。
7.何もせず、じっと座ってわたしの指示を待つこと。
指示がなければ大人しく、指示があれば即座にそれを実行すること。反論は認めない。
8.自分の素性を隠してはならない。
9.上記のルールに従わなかったものは何度でも電線の刑に処す。
10.この規則に従わない場合は電流10回か電気ショック5回の刑に処す。


当時、この建物はS21(トゥールスレーン収容所)と呼ばれて、ポル・ポト派が元中学校の校舎を改装した「更生施設」だ。
収容されたのは20000人、生きて出たのは8人。
この施設で、カンボジア人によるカンボジア人に対しての拷問と殺戮が行われた。
尋問員は時には家族や友人に拷問を加え、ありもしない罪を認めさせ、処刑した。
爪を抜き、指を切り落とし、ありとあらゆる苦痛をあたえた。
現在、この施設は博物館として一般に開放されている。
拷問に使われた器具や、人々が収容されていた雑居房、写真など、貴重な資料を見ることができる。
 (独房群)
 (手前の床に付着した血痕が見えるだろうか。)


中を歩くとところどころ床に茶色いシミが付着している。
拷問を受けた人々から落ちた血液だ。
階段の踊り場の壁には弾痕と、同じようなシミが無数に張り付いている。
1979年にベトナム軍によって攻められた時、ポル・ポト兵は逃げる前にここにいた人々を全て殺害した。
壁の傷や滲みはその時のものと思われる。

人間ではなく、鬼の仕業。
そう伝えるのがふさわしい。

館内は息が詰まる。
拷問に傷ついた体を引きずって歩き、独居房でうずくまる犠牲者のうめき声が聞こえてくるようだ。

(この木枠は・・・) 
(このように使われた。)

 (この上のフックに縄をかけ逆さまに人を吊るした。
下の水瓶で受刑者が溺れて気を失うと、尋問員は糞尿を溜めた壷に顔を入れた。
受刑者は刺すような匂いで意識を取り戻した。
そしてまた同じことが繰り返された。)

 (鉄のベッド:この窪みはどのようにできたのだろう。床には赤茶のシミがこびりついている。)


ポル・ポト派を知らない人のために簡単に説明する。
1976年、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュは、国内の混乱に乗じて首都プノンペンを奪い取った。
クメール・ルージュは農業主体の共産主義国家の設立こそユートピアと掲げ、当時の教育の乏しい農民層の支持をすぐに集めた。
「文明は腐敗物だ」と通貨や教育といった社会機能を否定し、都市を破壊し、そこに住む人々を年齢や性別ごとに集団農場に送りこんだ。
多くの家族が引き裂かれた。
クメール・ルージュの革命とは「完全に平等な社会の建設」だ。
もっと言えば原始的な生活だ。
格差なく、最低限のつつましい暮らしが平和をもたらすと考えていた。
そのため前述したとおり、経済や教育など、格差の要因となりうるものを徹底的に規制した。
人々は物々交換で暮らすことをしいられ、過酷な強制労働に従事させられた。
当然こんな人間性を無視した革命、失敗する。
人々の暮らしは苦しくなり、不満が募り始めた。
政権の雲行きが怪しくなり、ポル・ポト派首脳部は焦った。
その結果が市民虐殺だとされる。
政策失敗の原因を、知識人になすり付け、医者、学者、教師をはじめ、一定以上の教育を受けた人々を強制収容所に送り込んだ。
「腐敗した知識をもとに革命の邪魔をしている」として。
(2005年のカンボジア人口ピラミッド。
ちょうど「25〜29歳」以上の人口が異様に少ない。)

この時代にカンボジア人の3分の1以上が「革命」の犠牲になった。
当時のカンボジア人口が800万とされる。
300万人が殺された。(資料によって数は異なる。)
上が現在のカンボジアの年齢別人口統計表。
25才以上の人口が不自然に少ないのが分かる。

プノンペン。
ここはかつて、
ドイツのヒトラーによるユダヤ人迫害や、
中国の毛沢東による文化大革命、
ロシアのスターリンによる大粛清と並んで称される大虐殺が行われた場所。

人間が生み出せるもっとも痛ましい地獄がここにもあった。

つづく

2013年4月2日火曜日

カンボジア:ベンメリア遺跡 「世界のリアル」の至近距離


アンコールワットから40kmにある、森に眠る遺跡「ベンメリア」がヨーロッパ人の狩人に発見されたのは1990年代。
(カンボジア人はもっと前から存在を知っていたので、これは西洋視点での発見時期。)
そして2001年に観光客に開放された。

この遺跡は楽しい。
自然の浸食によって崩壊が進み、遺跡内にはかつての建造物から崩れ落ちた大きな石がうずたかく積みあがっている。
遺跡というより、瓦礫山といった方が近い。
石の山をよじ上って遺跡内を探検するので、アスレチックみたいだ。
遺跡探検を終えると汗だくになるほど、アドベンチャーを体験できる。



ここには宿で知り合った日本人とグループで行った。
ワゴン車とドライバーをみんなでお金を出し合ってハイヤーしたので、一人数百円で済んだ。

朝早くから集まって、1時間かけて赤土の道をすすむ。
途中、茅葺きの家々が連なる集落を通る。
多分、この辺りは電気もない。
家の中のシンプルな暮らしを想像するのが楽しかった。



遺跡の入り口に立つと、奥に石の山が見える。
バタバタと巨石が倒れていて、巨人が暴れたようだった。
ここは「天空の城ラピュタ」のモデルになったらしい。
たしかにここは「自然と文明」というテーマで哲学するのにはうってつけの場所だ。
奥に行くと、植物と遺跡が絡まりあう異様な光景が広がる。
石を踏んづけながらさらに奥にいく。








玄関をくぐり、遺跡の中に入ろうとした時、岩の上でおばちゃんがこっちよと手招きをしてきた。
周りには彼女と同じジャケットを来た人が何人もいる。
多分、市のガイドか何かなのだろう。
でも後で多額のチップを要求される可能性があるので注意は必要だ。
着いていくかどうかグループで話し合った。
人数がいたので、どうにかなるさ、と彼女についていくことにした。






おばちゃんは軽快なステップで、石の山を登っていく。
熟練の眼で、ここは危ないとか、ここは大丈夫だとか見分けていく。
彼女に案内されるまま、塀の上をつたい、ガジュマロの枝でブランコをし、高さ15mの石山に登った。
遺跡を遊び場にしている地元の子どもが岩と岩の間をジャンプする。
高い所で片足立ちをして、見て見て〜と観光客に自慢している。
こんな贅沢なアスレチック、きっと世界中どこにもない。


おばちゃんに連れられるまま、ベンメリアの遺跡を登ったり降りたりしているうちに、少し開けた場所に出た。
あたりは木や草がなく、砂地だ。
おばちゃんがすっと立ち止まってこちらを振り返り、地面を指差した。
そこは窪んでいる。
「ランマイ・・・」
おばちゃんはそう言った。
最初、何の事だか分からなかった。
俺たちがキョトンとしていると、彼女はズボンの裾をめくった。
その部位は光を反射している。

義足だった。

ランマイとはランド・マインのこと。
地雷。
彼女の足は地雷によって吹き飛ばされていた。
こんな至近距離に、メディアで見た戦争がある。

彼女はニコッと微笑むと、また俺たちのガイドを続けた。
石の山を平気な顔をして登っていく。
この人はとてつもなく強い。
最初に金の心配をした自分が恥ずかしくなった。

カンボジアは内戦の傷がまだ癒えていない。
戦中600万個埋められた地雷は、撤去が進められた現在でも毎年200人以上の手足をもぎ取り、命をむしり取っている。

カンボジア内戦について知る必要性を感じた。
内戦とはつまり、カンボジア人がカンボジア人を殺すということ。

明日、カンボジアの首都プノンペンに行く。
そこには、ポル・ポト派による虐殺の歴史が生傷のまま残されている。