2024年7月20日土曜日

ベトナム:ハロン湾 五線譜は世界を包む毛布

今日はハロン湾でのツアーに参加する。

朝バス停に行くとバスがすでに止まっていた。
後ろの席はすでに埋まっていたので一番前の席に座った。
ぎゅうぎゅう詰めの車内、隣の席にはヨーロピアン風の小柄な女性が座っていた。
俺は警戒されないようにニコッと笑って「ハイ、ここに座っても大丈夫かな?」と聞いた。
彼女は必要最小限のスマイルで、どうぞ、と言ってくれた。
俺は座るなり彼女に「日本から来ましたアツシです」とあいさつをした。
「リジェーンよ、ベルギー人」
北欧の人はコミュニケーションも省エネなのか。
通路を挟んでのお隣はオランダ人女性の二人組。

ハロン湾まで数時間あるというので、僕はお絵かき帳を取り出して下書き段階の絵を仕上げることにした。
もちろん人前で絵を描くということには「関心を引いて友達を作る」という裏目的も併せ持つ。
作戦通り、リジェーンとオランダ人の二人も興味を持ってくれた。
絵のおかげで、その後のバスの時間はいろいろとお話ができて楽しいものになった。
リジェーンは心理カウンセラーで、オランダ人の二人は大学の卒業旅行だった。
港について船に乗ると、さっそくランチが提供されて僕らは同じ席に座った。




船には世界中から集まった20人程の人々が乗っていた。
俺はリジェーンたちを含めた20~30代の若者たちと仲良くなって、そのあとのツアーを一緒に行動した。
船は海の上の名所をたどっていく。



まず、船はティエンクン鍾乳洞を訪れた。


大聖堂くらいの大きさの鍾乳洞がカラフルにライトアップされていて、それがなんとも残念なのだ。
俺たちは顔を合わせて「ライトアップしない方がいいのに、もったいないね」と意地悪に笑った。
せっかく洞内の自然の造形が美しく、何もしなくても岩肌のうねりがいい感じに心をかき乱してくれるのに、都市のネオンのような色使いで照らしているために、ちょっと下品になってしまっている、
ということで、世界の若い旅人たちの間では一致した。

次は、カヌーやボートで奇岩の中を進んでいくレジャー
岩のトンネルをくぐると、中は円形のホールのようになっていて、
鳥がさえずる声がいつまでも反響し続けていた。
一同、その非現実的な空間に胸を打たれていた。








続いてはボートピープルの集落







一通りのレジャーが終わると船はいかりをおろして停泊した。
みんな甲板に上がってきて思い思いくつろいでいる。

しばらくして、ぱっしゃーん、と誰かが海に飛び込んだ音が聞こえた。
アメリカから来ているジョージだった。
すぐに彼と一緒に旅をしているマークが飛び込んだ。
フランス人のロイと恋人でベトナム人のミーも続いた。
競うように僕も飛び込んだ。
ベルギー人のリジェーンがそれを見て我慢しきれなくなって水着に着替えて飛び込み、オランダ人の二人組は「もういいや!」と言って着ていた服のまま飛び込んだ。
水は思ったよりは冷たく、キレイではなかったが、みんなぶるぶる震えながらも6~7mの高さのある甲板から飛び込んだ。
最初心配そうに見ていた中年の韓国人夫婦も、笑い始めて、やがて旦那さんが何やら韓国語で叫びながら飛び込んだ。






そうこうしているうちに太陽が水平線にゆっくり落ちていく、水面に敷き詰められた光の粒。何度も見た光景でも、心を奪われる。



自然に甲板にいるみんなも静かになる。海風の匂いははほんのり塩っ辛い。
不思議な形の島や岩が一つずつ影になって、夜に溶けていく。

「Hey, ジャパニーズ・ギターマン、いつになったらショーを始めるんだ?」
海に真っ先に飛び込んだアメリカ人のジョージが声をかけてきた。
憎らしいほどのイケメンだ。
ジョージはめちゃくちゃイイ奴。
気遣いができて頭も切れる。
人間であればだれでも惚れるだろう。
完璧すぎるナイスガイなので、とんでもない欠点でもあってくれないと不公平だと思う。
リジェーンは若干恋に落ちかけていた。

ギターケースを開けて、ギターを取り出しチューニングする。
みんなが俺を見ている。
期待に輝く視線の中心で小さな優越感を感じる。
最初はこの沈黙をなめらかに破るとしよう。
"My Favorite Things" がいい。
それに続いて"Fly Me to the Moon"、マイケルジャクソンやビートルズ、ブラジルの音楽も歌った。
ある程度歌って、すっと音を止めてみる。
潮騒に包まれた。
ボコンと船腹に波がぶつかる音が響く。
ぼんやり座ってると船がゆったりと揺れているのに改めて気づく。

みんな黙っている。
「もっと弾いててよ。すごく良い感じ」
声を発したのはオランダのリジェンだった。
彼女とは船内の部屋が一緒で、露骨にゲ~っていう顔をされたが、1日一緒に過ごして打ち解けてきた。
女性の一人旅で気を張っていたんだろう。


韓国人カップルは抱き合ったままこちらを見て、ニコッっとうなづいた。
フランス人のグレンと、ベトナム人のネリーは縁に寄りかかって数少ない星を見上げてる。
みんなそれぞれの言葉で語り合っていた。
僕は消灯の時間まで歌い続けた。
最後はルイ・アームストロングの「What a wonderful world」を選んだ。
左手が汗と潮でベタつく。
頭の中にはイントロのストリングスが響いている。
I see trees of green, red roses too.... 」
歌詞は、世界中の美しいものを、窓辺にガラス細工を飾るみたいに、一つずつ心に置いていく。

歌い終わって僕はギターを置いた。
「みんなありがとう、一緒に旅ができて最高だったと一日に感謝した。
「Yeah...」みんなにこやかにうなづく。
みんな国籍も人種も違う、いろんな歴史の子孫たち。

俺たちは一つの音楽にくるまって、船の上でこの素晴らしい世界に浮いている。
 What a wonderful world.....

なんて素晴らしい世界なんだろう


2016年10月29日土曜日

ベトナム:ハノイ 本物のシンカフェ

下の方でギュギュッと鳴るタイヤの音で目が覚めた。
窓の外では主翼のスポイラーが立ち上がって風を受ける。
ベトナムの首都ハノイに飛行機が着陸したのは夜の7時半。
辺りはすでに暗い。
空港を出て市バスを待つ。
空気はホーチンミンより少し涼しい。
日本の7月の雨上がりくらいの気温だ。
バス停には大きいスーツケースを横に談笑する人々。
ベトナム語は全くわからない。
40分ほど待ってたらバスが来た。
待っていた人々を全て乗せるとプシューッと音をたててドアが閉まる。
エンジンが苦しそうな鳴き声をあげてバスが動き出した。
一番後ろの席に座って「ふうっ」と息をつく。
シートに手をつくと日本のバスと同じ起毛性の布地の手触りだった。

あと、一週間で旅が終わる。
シートの横にはマレーシア人の男性が座っていた。
なにかのエンジニアだという。
この旅の間、エンジニアによく会う。
エンジニアは旅をする生き物らしい。
羨ましい。
どこの国の人も英語を話す日本人を珍しがり、「日本人てすんごい働くんだろ?」と聞いてくる。
海外で聞く日本人のステレオタイプは「英語が苦手」で「働きすぎ」だ。
どちらも事実だと伝えると、

「そうなんだ・・・」とほぼノーコメントなコメント。

理解できないだろうな。

長時間労働が当たり前なことも、10年くらい英語の授業を受けていても全く話せない人がいることも。

だってマレーシア人は平気で3か国語、4か国語を話す。
このままじゃアっという間に国際社会から日本は取り残されてくんだろうな。
CMで「英語を話せると得をする」ってやってるけど、実際は話せないと大損をする。
それが世界の常識なんだ。

空港を出て40分ほどして目的地に着いた。
マレーシア人エンジニアとは連絡先も交わさず別れた。
ハノイの町はまだ9時半なのにすっかり静まり返っている。

町はすでに眠っているようだ。夕食をとるのも難しかった。

宿選びにも苦労した。
飛び込みで探してると相場の倍くらいの値段をふっかけられる。
結局、オーナーがちょっと胡散臭かったけど、疲れに負けて3つ目ぐらいのところで夜を明かすことを決めた。
案の定、翌朝からオーナーは顔を見るたびに、いつ自分んとこでツアーに申し込むのかと聞いてくる。
うっとうしいと思ってしまうが、これがこっちでは当たり前なんだ、と苛立ちを抑える。
日本人は金がないといいつつも、彼らと比べるとやはり金がある。
タカられて「ふざけんな」と思っても、逆の立場だったら自分だって同じことをすると思う。


たまたま日本に生まれただけで、生まれた瞬間に通貨とかパスポートとか、いわば世界中を眺める特等席が用意されている。何の努力もせず、ズルい。
世界には70億人がいて、そのうち先進7カ国の人口は一割。
日本の人口は1.3億人弱。
さらに東京の人口はその10分の1。
俺は1000人のうち2人という非常に有利な環境に生まれたことになる。

世界のどこに行くにしてもほぼ24時間以内に着く。

俺はこの幸運に気付いて英語を頑張れた。
外国でタカられても怒っちゃいけない。

でも、、、、フロントを通る度に「おい、ツアー早く申し込めよ!」とか言われると、さすがに腹が立つので、ほかで探すことにする。

ここハノイでやりたいことは決まっている。

水墨画の世界が広がるハロン湾という景勝地でクルージングがしたい。

奇妙な形をした岩が水面から顔を出す海の上でのんびりして、夜は星に見守られて眠る。

そんなツアーがハノイからでているという。
日本でベトナム人の友達に勧められて、絶対に行きたいと思っていた。
「シンカフェ」というところが良いツアーを格安で提供してるらしい。


しかし、ベトナム、期待を裏切らないメチャクチャっぷりだ。
「偽物のシンカフェ」があちこちにある。

町中シンカフェだらけなのだ。
旅行者のブログはそれぞれ「本物のシンカフェはここだ」と書き、「偽物はここだ、気をつけろ!」と警告している。
前のブログで「本物のシンカフェ」と紹介されていた場所は、次のページでは「偽物」と書かれている。
地元の人に聞いてもみんな違う方向を指さす。
もう誰にもどれが本物か分からないんじゃないか。

本物なんてないんじゃないか。

(本物ってなんだ?)哲学のループに迷い込む。

なんでこんなことになってんだろう。
本家には気の毒だがここまでくるとむしろ清々しい。
そして、偽物でも良質なツアーを提供しているなら、それでもいいとすら思えてくる。
俺は10個くらいあるシンカフェの中で、笑顔の明るい女性スタッフが受付しているところに入った。
本物か偽物かは分からない。
30歳くらいの女性スタッフがカタログを開いて見せてくれた。
ハロン湾クルージングツアーは船のグレードで値段が違う。
高級は6000円で、バックパッカー用は3000円。

違いは船と食事のクオリティ。
俺が申し込んだのはお安いプランだったけど、船上で1泊3食付き、さらにシーカヤック、鍾乳洞探検込みで3000円は素晴らしい。

彼女に3000円分のベトナムドンを支払って申し込んだ。


ついに明日ハロン湾に行く!
ウキウキしながらホテルに戻る。
いつも通りホテルのオーナーが顔を見るなり、「よお、今申し込んじゃいなよ!」と声をかけてきた。
もうシンカフェで予約したことを告げると、チッと舌打ちしてきた。
素直すぎるだろう(笑)。

むふふふ、むふふふ。
明日はハロン湾 ♪

2016年10月24日月曜日

ベトナム:クチトンネル

お詫び
今回、写真は全てGoogle photoから借りてきています。
自分で撮った写真はどうやら何かのトラブルがあったようで見当たりません。
今も探していますので見つかり次第、変えていきます。
持ち主の方が当ブログを訪問されることがありましたら、ご容赦頂けると幸いです。
削除の要請などありましたたすぐに対応させていただきます。
コメント欄にご記入ください。
大嶋敦志



朝、クチトンネル行きのツアーバスがホテルの前にやってきた。
ガイドに自分の名前を告げて空いてる席に座る。
バスの中には既に20名くらい。
日本人は俺だけだった。
バスは郊外に向けて走る。
クチトンネルまでは西北へおよそ70km、80分程度の道のり。
途中、ベトナム戦争で敗北した南軍と、勝利した北軍のそれぞれの集落を見る。
社会主義国なのに建物の外観から格差を感じた。






クチトンネルに行く途中、バスは「HANDICAPPED  HANDICRAFTS」という土産物屋で止まった。
直訳すると「障がい者工房」。
障がいを持つ人々が民芸品を作って販売している。
彼らが職人としての働き、共同で生活している。
ここでは主に、たまごの殻をタイルのように貼り合わせて繊細なモチーフを表す「エッグシェル・クラフト」の食器やアートワークが購入できる。
びっくりするほどクオリティが高い。

この工房で働いている人の多くが先天的な障がいを持っている。
年齢層から察するに、ベトナム戦争時に米軍が撒いた枯れ葉剤が影響した可能性が高い。
しかし、ガイドの話では、米軍への恨みを口に出す人はあまりいないという。
枯れ葉剤が原因で自分が障がいを持って生まれたことを認めたがらない人もいるらしい。
彼らは仏教の死生観の中で生き、前世で冒した罪を今世で償っている。
そして、今世を誠実に生きることで来世の幸せを待っている。
とても胸が痛んだ。
でも、これも宗教が人の心を救っている一つの例かもしれない。




車は工房を出て再びクチトンネルに向かう。
現地に到着して車を降りるとゴム林の中を進む。
静かな林に伸びる小道がタイムトンネルみたいだ。

俺の備忘録も兼ねてベトコンと米軍のポジションを整理しよう。
「南ベトナム解放民族戦線(1960年結成)」の通称がベトコン。
(ちなみにベトコンは米軍兵が使ってた蔑称なんだけど、問題ないらしいし、ネット上で他の正式な呼び方も見当たらなかったので、俺もベトコンて呼ぶことにします)
「南ベトナムの独裁制から同民族を解放」するために結成された反政府勢力で、
ソ連の支援を受けてた北ベトナム側のグループ。
当時、南ベトナムはフランスの統治下にあり、
アメリカはソ連に対抗するため南ベトナム側を支援。
ベトコンと戦うことになった。
もっとざ〜〜〜っくり言うと、
反共産主義(アメリカ、南ベトナム)
VS 社会主義(ソ連、ベトコン、北ベトナム)

そして今日俺が来ているクチトンネルは、
ベトナム戦争中にベトコンによってゲリラ戦の本拠地として活用されたトンネル。
もともとフランス統治時代に造ったトンネルがベトナム戦争で日の目を見た。(トンネルだけど)
四方30kmに広がり、全長約250km。
カンボジアとの国境付近まで張り巡らされている。
トンネルを掘るにあたって重機は使わず、
下の写真のような昔ながらの農具を使っての人海戦術だった。
現物の摩り切れ具合から、当時の人々の気合が伝わってくる。


(クチトンネルを掘るために実際に使われた農具)


ベトコンは米軍が地上で大規模な作戦を展開するうちは地下に篭り、
隙をついて奇襲を仕掛けた。
夜になると外に出て畑の手入れをし、新鮮な空気を吸った。
太陽を浴びれない生活を月がなぐさめた。
トンネル内には負傷兵を治療する診療室や武器庫の他、
学校、キッチン、シアタールームまであった。
防空壕というよりも地下都市と呼ぶのがふさわしい。
それでも、生活はとても困難だった。
数千人が暮らすには水、食料、空気は不足し、ムカデ、サソリなど害虫も出た。
閉ざされた空間で寄生虫や伝染病はあっという間に広がり、大勢が命を落とした。
そんな生活を彼らは15年続けた。


(診療室)

(南軍の弾薬から火薬などを取り出している様子。
自分たちが使い慣れた武器に火薬を移して使った)

(トンネル内図。
アリの巣のような構造になっている。
政府はトンネルの全長を250kmとしているが、
全体について把握している人はいない)

実際にトンネルに入ってみる。
下の写真ではフラッシュを使っているので内部が見えるが、
通常、観光客にライトを渡されない。
中は狭く、膝をついて進むのがやっとの高さ。
這っても這っても続く闇。
指先に当たる落ち葉をかき分けながら進む。
ネズミとかゴキブリに触ったらやだな、
とか思うけど、見えないから一緒だとすぐ気づく。
落ち葉の乾いた音と自分の息の音。
聞こえるのはそれだけ。
土に吸収されて外の音はほとんど聞こえない。
居心地のわるい孤立感。
たかだか20mくらいのトンネルなのに、
外の明かりが見えた時の安心は大きかった。

(ここから入る)
(トンネルの中、実際は明かりを持たないので真っ暗)

ベトナム戦争で、米軍はゲリラに負けた。
ベトコンの作戦は古典的で、これで米軍の圧倒的な軍事力を打ち負かしたと思うと、感心してしまう。
例えばあちこちに仕掛けられた「落とし穴」。
底には毒針。
落ちた米軍兵が軽い傷でも20〜40分で死に至るように作られていた。
効果はあった。
落とし穴は敵を飲み込む以外に、罠を恐れる米軍兵の集中力を削いだ。
しかし、ベトコンは更に考えた。
米軍兵が死亡した場合、相手の兵力はマイナス1だが、負傷させた場合は補助に二人つくのでマイナス3になる。
そこで、彼らは針に汚物を塗ることであえて致命傷を負わせず、敵を破傷風にした。
なるほど。
(落とし穴)
(毒針)

そして、奇襲を仕掛けるために隠れる穴。
米軍兵が入れないよう、小柄なアジア人のサイズに作った。
なるほど。
(奇襲用の隠れ穴。
蓋をすると地面にうまくカモフラージュされる。)

あと、ベトコンの奇襲に手を焼いた米軍は、
シェパード犬を使ってトンネルの位置を暴こうとした。
ベトコンたちは犬が嗅ぎ慣れたアメリカ製の石鹸を使って体を洗ったり、
死んだ米軍兵の制服を着たりして犬の鼻を撹乱した。
犬が落とし穴などの罠の犠牲になることも多く、米軍兵を恐怖に陥れた。
なるほど。


こうしたベトコンの「知恵」を前にして、
米軍の最新兵器はなす術なく、
業を煮やした米軍はやみくもに破壊行為を続けた。
ついにはやけくそになって民間人も殺した(ソンミ村虐殺事件1969年)。
終わりの見えない戦争、増え続ける戦死者、
米軍による民間人虐殺のニュースは、
アメリカ国内外のベトナム戦争信仰をひっくり返した。
そして1973年、アメリカ軍撤退。
1975年、サイゴンが陥落してベトナム戦争は終結。
地下で生活し続けた人々はついにイデオロギーを守りきった。

(トンネルを一掃しようと、
米軍はナパーム弾を投下した。
しかし、ナパームの炎は熱帯雨林の水分を押し上げ、
雨を降らせ、自らの熱を冷ます。)





ここではライフルや機関銃の試し撃ちができる。
俺も機関銃を撃ってみた。

16発で2,000円しない。
16発もいらない。
オランダ人カップルと8発ずつ分け合う。
射撃場に入る前にヘッドフォンの装着を指示される。
ビックマックのように分厚いヘッドフォンだ。
射撃場に足を踏み入れる。
色んなタイプの機関銃が並んで設置されてる。
殺傷を唯一の存在意義とする人工物の寒々しい重量感。
地面には薬きょうが散乱していて、
機関銃の周りに貝塚みたく山を形成してる。
死を産むポテンシャルの抜け殻だ。
固定された機関銃に弾を装填して100メートル先の的に照準を合わせ、
トリガーに指をかけてゆっくり引く。
バァーーンと耳のビックマックを突き抜ける凶音に頭がツーンとなる
鼓膜の中で爆竹が弾けたような音量。
銃身のブレを防ぐために充てていた鎖骨への衝撃も凄まじい。
戦争映画の爆音はこれに比べたら子守唄。
実際の戦場では、隣の仲間の叫び声すら聞こえないだろう。
ホテルに帰っても耳のツーンが消えなかった。
あの音が今日も世界のどこかで平穏を裂く。
俺たちはスピーカーのボリュームでそれを聞く。

2015年6月12日金曜日

ベトナム:ホーチミン ドラッグに奪われた時間



カンボジアのプノンペンからバスでおよそ六時間
ベトナムのホーチミンに着いた
午後一時、安宿を探すがベトナムの物価は他の国に比べると高い
なんとか1200円くらいのホテルが集まっているところを見つけた。
重要なのはスタッフの人柄。
お客が欲しいのは分かるんだけど、
みんながっつきすぎ。
一番がっついていないところに決めた。

ホーチミンには一泊しかしない
明日の夜にはベトナムの首都ハノイに飛ぶ
ハノイへのフライトまで24時間以上あるので、
限られた時間の活用に集中する。
明日の朝からのクチ・トンネルへのツアーを申し込むことにした。
世界の安宿にはツアーの案内がある。
宿が企画しているものもあれば、
地元の業者と提携していることもある。
英語がある程度分かるなら、是非おすすめしたい。
現地価格で観光が楽しめるし、他の旅行者と仲良くなることも多い。
ローカルの人々が組むパッケージになるので、
他の日本人観光客とは違った経験が得られることもある。




ホーチミンの町を歩いた
ドイモイ政策下の社会主義国を見学に行く
「ドイモイ政策」をざっくり言うと、資本主義をほど良く受け入れていく政策
例えば、社会主義の国なのにアメリカのファストフード店を見かける
コーラも飲める
ざっくりすぎてごめんなさい・・・




ベトナムの米麺、フォーを食べる
透明なスープに麺と薄いチャーシューともやしが浮かんで400円
高い!
こんなの日本でも400円で食える
吉野家の牛丼の方が全然いい
でも、気を取り直してまた歩く
有名らしい教会に着いた
どこか殺風景で特別な感情やインスピレーションは湧かない
教会をぐるっと一周してみる
小さな公園があった
物凄い人口密度
若者たちがあちこちにかたまって座って話している
所狭しと密集していて人がブドウみたいだ。
何人かうまそうなものを食っている
フォーのリベンジがしたい
彼らはきっと安くてうまいものを知ってる
しかし会話に割って入る勇気が出なかった。


ホテルまで帰るとまだ少し明るかった
近くの広場で少しギターを弾くことにした
俺の向かいのベンチでは男娼が客と交渉をしている
さっきから綺麗な女の子と目が合うが、彼女も多分「彼」なので
声をかけるのはやめておく
30分くらいギターを弾いていると、大学生くらいの若者が声をかけてきた
彼はトンといい青年会の遠征でタイから来ていた
簡単な語彙だが英語がうまい
話し方から誠実さが伝わってくる
日本人と始めて話すらしい
英語が通じることを喜んでくれた
どんどん深い話題へと進み、
その爽やかな見た目からは想像もできない自身の過去を語ってくれた

トンは10代前半に仲間の勧めでドラッグに手を出し、
15才の時にはすでにドラッグ中毒になっていた。
高校も行けなくなり、家庭では暴れるか無気力かの廃人だった
家族の勧めでリハビリ施設に入り、治療を開始する。
3年後、家族の支えと、本人の意志の力で、
ようやく地獄のような禁断症状を乗り越えた。
当時18歳。
高校にもいけず、すで青春の大部分を奪われていた。
将来を悲観視していたが、家族が話していた「国際交流」に強い関心をもった。
医者にはドラッグの後遺症で脳の機能が完全でないことを告げられていたが
猛勉強して一年後、国際交流活動が活発な大学に進学した。
そして今日、国際色豊かな仲間とベトナムに来て、
初めて日本人と話している。
英語は始めてまだ半年だという。
凄く上手だ。
トンはドラッグのことを後悔している。
失った時間は取り戻せない、と。
自分は遅れているのだ、と。
トンはそこまで話し終わるとそのまま黙った。
眉をくいっとしかめ、無言で俺に人生の先輩としてのアドバイスを求めている。
言えることはない。
こんなこと乗り越えたことない。
でも、人生の先輩ヅラをしたまま、
「支えられたなら、次は支える番だね」と言った。
何も言わないことだけ、この場では不正解だった。

今でも自分の言葉を思い出す。
そして恥ずかしくなる。
今でもトンの方が上だと思っている。

2013年7月5日金曜日

カンボジア:プノンペン 未来のつくりかた。


(画像:google )
(画像:google)

キリングフィールドを出るとプノンペンの市街地に戻った。
トンレサップ川沿いに淡いパステル色の建物が並ぶ
川を眺めようとすると、高さ20-30mはある堤防が町と川を隔てていて、見下ろした先に大きな船が行き交っている。
大小何隻もある船が時々ボーッと汽笛を鳴らす。
川の水はきれいではない。それでも水のある景色はやはり気持ちがいい。水のそば、という安心感もあるのかもしれない。大量の水の流れを見て昔から人々はホっとしてきたんだと思う。ぼくも何もせずしばらくボケーッとしていた。
しかし、キリングフィールドの衝撃的な光景が頭にこびりついて離れない。
無数の魂が浮かばれる日がいつか来るのだろうか。

(青空エアロビを楽しむ人々)

柱時計は午後4時を少し回ったあたりを指していた
陽はまだ高く、暮れるまで十分に時間がありそうだ。
タンクトップに短パン姿の男性が現れた。
肩にラジカセを担いでいる。
広場の真ん中で立ち止まると、ラジカセを置いてスイッチを入れた。
軽快な音楽が鳴る。
タンクトップの男性はリズムに乗ってエアロビを踊り始めた。
だんだん人が集まってきて、たちまち200人程の大集団になった。
みんな同じ動きをしている。
老若男女、犬を連れたり、小さな子どもを肩車している人もいる。
30分ほどして音楽が終わった。参加者がラジカセの横に置かれた小箱に小銭を投げ入れていく。
青空エアロビ教室だった。

一方、さらに奥の方では若者たちがサッカーをしていた。
始め12、3人で一つのボールを追いかけていたが、
こちらもじゃんじゃん人数が増えて30人近くまでふくれあがっていた。ゴールらしいものはなく、ペットボトルを2つ間隔を開けて置くことでゴールのかわりにしていた。
点を取ったチームがハイタッチしている。

(写真:Google)

ポル・ポト時代について、カンボジア人が仲間同士で話すことはほとんどないという。
誰が加害者で、被害者だったのかを語らない。
自分の家族を処刑台に送り込んだのはエアロビで隣にいる男かもしれないし、自分が密告したのはハイタッチをしたチームメイトの親戚かもしれない。
異常な時代について市民同士は掘り起こさない。
「裁いても豊かになれないなら、過去は振り返らない」

そういうことなのか。

今もポル・ポト派幹部数名の裁判は終わらない。
老いた被告や生き証人は法廷に立たなくなりつつある。
ある者は死に、ある者は認知に問題ありとされて釈放された。
これは裁きを先延ばしにして幹部が極刑を避けるためなのか。
アメリカ・中国がポル・ポト派を支援した過去を隠すためなのか。
歴史的大虐殺を主導した被疑者の権利を守るカンボジア特別法廷。
二百万人の犠牲者の魂は、被告たちが迎える安らかな死をどのように見届けるのだろうか。
暗すぎる歴史は光が当たらぬまま永久の眠りにつこうとしている。

釈然としない気持ちのままカンボジアを離れることにした。

2013年5月19日日曜日

カンボジア:キリングフィールド ポルポト派による大虐殺②



毎日、荷台に数十人の虜囚(りょしゅう)を乗せたトラックがやってくる。
トラックはゲートをくぐると、急ブレーキをかけて止まる。
荷台から吐き出すようにして虜囚が下ろされる。
彼らは手錠が外されないまま、ブロイラー小屋のような狭い建物に、ブロイラーのように押し込まれた。

「別の場所で働くことになった。」
虜囚は前にいた場所でそう聞かされてここにやってきた。
多くは自分に最後の時が近づいていることを察していた。
拷問や、過酷な労働から逃れられるなら「死」は安らぎに思えた。

毎晩、夜になると大きな音で音楽が流れる。
看守が扉を開ける。中から数人が呼び出された。
呼ばれた者は、胸ポケットの写真を引っ張り出して、そこに映る家族や恋人の顔を目に焼き付けた。
そして残された者に一瞥して鶏小屋をでると、看守とともに暗に消えた。
連れ出された虜囚はある場所に着くと目隠しをされる。
もう何も見えない。
鳴り響く音楽が聞こえるだけ。
看守が腕を引き、10歩くらいのところで地面に膝まずかせた。
何も見えない。
目の前のすえた匂いが鼻を突く。

看守の手にはスコップやバット、金槌。
銃ではない。
それを大きく振りかざした次の瞬間、命を失った体が暗い穴に転がり落ちる。

次の虜囚が連れてこられる。
看守は手に、地元人が鶏の首を切るのに使うトゲのついた植物を握っている。
看守は人間の喉にそれをあてた。
断末魔の叫びは大音量で流れる音楽に全てかき消された。




プノンペンにはS21の他にもう一つ、虐殺の歴史を伝える場所がある。

キリングフィールド。
処刑場だ。
カンボジア国内ではこうしたキリングフィールドが100ヶ所以上見つかっている。

収容所や集団農場で、労働力にならないと判断された人々がここに運ばれた。
また、拷問に耐えきれず、あらぬ罪を認めてしまった多くの民間人もここで処刑された。
俺が訪れたプノンペンのキリングフィールドからは、
すでに9000体近い遺体が見つかっており、
さらに掘れば1万体は挙るだろうと言われている。
しかしその1万体は湖の底、資金が足りず、掘り起こされるめどはたっていない。




辺は所々くぼんでいる。
くぼみは86個ある。
このくぼみは、遺体が埋められていた穴を掘り起こした跡だ。
深くえぐられた地形が30年間の風雨によってなだらかになった。
すでに虜囚を収容していた小屋などは取り払われていて、処刑場を連想させるものは何もない。
緑が生い茂り、風がそよぐ穏やかな場所だ。
歴史はすっかり角を落として丸くなってしまった。



ここを訪れる人々は入場料を支払うとヘッドフォンを渡される。
日本語の解説を聞きながらキリングフィールドを歩く。
歩いていると数字の書かれたプラカードが地面に刺さっている。
その数字を端末に入力すると、自分が今立っている場所で30年前に何が起きたのか、解説が流れる。
ロープでくくられたエリアで何が起こったのか、この土地がどれほど多くの血を吸ってきたのか。
ヘッドフォンの声が指示する通りに地面を見ると、骨や、衣服の切れ端が露出しているのが見えた。

(※注意! ここから、とても生々しい描写が始まります。弱い人は避けて下さい。)


キリングフィールドの中で、ひときわ異様な雰囲気を醸す木がある。
幹が無数のヘンプ(糸で編んだ腕輪)で埋め尽くされている。
訪れた観光客が捧げていく。
ある人はこの木の前に建てられたカードの文字を読んで涙を流している。

ここで起こったことは凄惨極まりない。



兵士は母親の目の前で乳児の両足をつかみ、頭部をこの木の幹に叩きつけた。
まだ柔らかな乳児の頭蓋骨は熟れたトマトのように弾け飛んだ。
幹にはいくつもの髪の毛が残っている。

さらに酷いことに、兵士たちは乳児の頭蓋骨を割ったあとで母親を強姦した。
この木のすぐそばから衣服を剥がされた女性の遺体が数百体見つかっている。





入り口の正面に慰霊塔が立っている。
音声案内に沿ってフィールド内を歩くと、最後にここに戻ってくる。
この慰霊塔はガラス張りになっていて中が透けている。
中はガラスの十数層のタワーになっていて、各層に犠牲者の頭骸骨がおさめられている。中に入ることができる。


中に入って頭蓋骨の破損した箇所を至近距離からみてみると、どんな物を使って撲殺されたのかが分かる。
空気の重さに胸が締め付けられる。
深く息を吸えない。

空洞になった無数の眼に見つめられているようだった。
彼らの悲しみや痛みの遺産から、訪れた人々は何を見い出せるだろう。
砂埃に埋もれさせてはならない遺産。
人類は砂埃を払う手を休めてはいけない。

カンボジアで、また世界各地で起きた戦争や紛争、ホロコースト。
犠牲者たちは、現代を生きる人々が平和の獲得を怠ることを絶対に許さない。
平和の獲得こそ、人間がやめてはならない戦いだ。