2016年10月29日土曜日

ベトナム:ハノイ 本物のシンカフェ

下の方でギュギュッと鳴るタイヤの音で目が覚めた。
窓の外では主翼のスポイラーが立ち上がって風を受ける。
ベトナムの首都ハノイに飛行機が着陸したのは夜の7時半。
辺りはすでに暗い。
空港を出て市バスを待つ。
空気はホーチンミンより少し涼しい。
日本の7月の雨上がりくらいの気温だ。
バス停には大きいスーツケースを横に談笑する人々。
ベトナム語は全くわからない。
40分ほど待ってたらバスが来た。
待っていた人々を全て乗せるとプシューッと音をたててドアが閉まる。
エンジンが苦しそうな鳴き声をあげてバスが動き出した。
一番後ろの席に座って「ふうっ」と息をつく。
シートに手をつくと日本のバスと同じ起毛性の布地の手触りだった。

あと、一週間で旅が終わる。
シートの横にはマレーシア人の男性が座っていた。
なにかのエンジニアだという。
この旅の間、エンジニアによく会う。
エンジニアは旅をする生き物らしい。
羨ましい。
どこの国の人も英語を話す日本人を珍しがり、「日本人てすんごい働くんだろ?」と聞いてくる。
海外で聞く日本人のステレオタイプは「英語が苦手」で「働きすぎ」だ。
どちらも事実だと伝えると、

「そうなんだ・・・」とほぼノーコメントなコメント。

理解できないだろうな。

長時間労働が当たり前なことも、10年くらい英語の授業を受けていても全く話せない人がいることも。

だってマレーシア人は平気で3か国語、4か国語を話す。
このままじゃアっという間に国際社会から日本は取り残されてくんだろうな。
CMで「英語を話せると得をする」ってやってるけど、実際は話せないと大損をする。
それが世界の常識なんだ。

空港を出て40分ほどして目的地に着いた。
マレーシア人エンジニアとは連絡先も交わさず別れた。
ハノイの町はまだ9時半なのにすっかり静まり返っている。

町はすでに眠っているようだ。夕食をとるのも難しかった。

宿選びにも苦労した。
飛び込みで探してると相場の倍くらいの値段をふっかけられる。
結局、オーナーがちょっと胡散臭かったけど、疲れに負けて3つ目ぐらいのところで夜を明かすことを決めた。
案の定、翌朝からオーナーは顔を見るたびに、いつ自分んとこでツアーに申し込むのかと聞いてくる。
うっとうしいと思ってしまうが、これがこっちでは当たり前なんだ、と苛立ちを抑える。
日本人は金がないといいつつも、彼らと比べるとやはり金がある。
タカられて「ふざけんな」と思っても、逆の立場だったら自分だって同じことをすると思う。


たまたま日本に生まれただけで、生まれた瞬間に通貨とかパスポートとか、いわば世界中を眺める特等席が用意されている。何の努力もせず、ズルい。
世界には70億人がいて、そのうち先進7カ国の人口は一割。
日本の人口は1.3億人弱。
さらに東京の人口はその10分の1。
俺は1000人のうち2人という非常に有利な環境に生まれたことになる。

世界のどこに行くにしてもほぼ24時間以内に着く。

俺はこの幸運に気付いて英語を頑張れた。
外国でタカられても怒っちゃいけない。

でも、、、、フロントを通る度に「おい、ツアー早く申し込めよ!」とか言われると、さすがに腹が立つので、ほかで探すことにする。

ここハノイでやりたいことは決まっている。

水墨画の世界が広がるハロン湾という景勝地でクルージングがしたい。

奇妙な形をした岩が水面から顔を出す海の上でのんびりして、夜は星に見守られて眠る。

そんなツアーがハノイからでているという。
日本でベトナム人の友達に勧められて、絶対に行きたいと思っていた。
「シンカフェ」というところが良いツアーを格安で提供してるらしい。


しかし、ベトナム、期待を裏切らないメチャクチャっぷりだ。
「偽物のシンカフェ」があちこちにある。

町中シンカフェだらけなのだ。
旅行者のブログはそれぞれ「本物のシンカフェはここだ」と書き、「偽物はここだ、気をつけろ!」と警告している。
前のブログで「本物のシンカフェ」と紹介されていた場所は、次のページでは「偽物」と書かれている。
地元の人に聞いてもみんな違う方向を指さす。
もう誰にもどれが本物か分からないんじゃないか。

本物なんてないんじゃないか。

(本物ってなんだ?)哲学のループに迷い込む。

なんでこんなことになってんだろう。
本家には気の毒だがここまでくるとむしろ清々しい。
そして、偽物でも良質なツアーを提供しているなら、それでもいいとすら思えてくる。
俺は10個くらいあるシンカフェの中で、笑顔の明るい女性スタッフが受付しているところに入った。
本物か偽物かは分からない。
30歳くらいの女性スタッフがカタログを開いて見せてくれた。
ハロン湾クルージングツアーは船のグレードで値段が違う。
高級は6000円で、バックパッカー用は3000円。

違いは船と食事のクオリティ。
俺が申し込んだのはお安いプランだったけど、船上で1泊3食付き、さらにシーカヤック、鍾乳洞探検込みで3000円は素晴らしい。

彼女に3000円分のベトナムドンを支払って申し込んだ。


ついに明日ハロン湾に行く!
ウキウキしながらホテルに戻る。
いつも通りホテルのオーナーが顔を見るなり、「よお、今申し込んじゃいなよ!」と声をかけてきた。
もうシンカフェで予約したことを告げると、チッと舌打ちしてきた。
素直すぎるだろう(笑)。

むふふふ、むふふふ。
明日はハロン湾 ♪

2016年10月24日月曜日

ベトナム:クチトンネル

お詫び
今回、写真は全てGoogle photoから借りてきています。
自分で撮った写真はどうやら何かのトラブルがあったようで見当たりません。
今も探していますので見つかり次第、変えていきます。
持ち主の方が当ブログを訪問されることがありましたら、ご容赦頂けると幸いです。
削除の要請などありましたたすぐに対応させていただきます。
コメント欄にご記入ください。
大嶋敦志



朝、クチトンネル行きのツアーバスがホテルの前にやってきた。
ガイドに自分の名前を告げて空いてる席に座る。
バスの中には既に20名くらい。
日本人は俺だけだった。
バスは郊外に向けて走る。
クチトンネルまでは西北へおよそ70km、80分程度の道のり。
途中、ベトナム戦争で敗北した南軍と、勝利した北軍のそれぞれの集落を見る。
社会主義国なのに建物の外観から格差を感じた。






クチトンネルに行く途中、バスは「HANDICAPPED  HANDICRAFTS」という土産物屋で止まった。
直訳すると「障がい者工房」。
障がいを持つ人々が民芸品を作って販売している。
彼らが職人としての働き、共同で生活している。
ここでは主に、たまごの殻をタイルのように貼り合わせて繊細なモチーフを表す「エッグシェル・クラフト」の食器やアートワークが購入できる。
びっくりするほどクオリティが高い。

この工房で働いている人の多くが先天的な障がいを持っている。
年齢層から察するに、ベトナム戦争時に米軍が撒いた枯れ葉剤が影響した可能性が高い。
しかし、ガイドの話では、米軍への恨みを口に出す人はあまりいないという。
枯れ葉剤が原因で自分が障がいを持って生まれたことを認めたがらない人もいるらしい。
彼らは仏教の死生観の中で生き、前世で冒した罪を今世で償っている。
そして、今世を誠実に生きることで来世の幸せを待っている。
とても胸が痛んだ。
でも、これも宗教が人の心を救っている一つの例かもしれない。




車は工房を出て再びクチトンネルに向かう。
現地に到着して車を降りるとゴム林の中を進む。
静かな林に伸びる小道がタイムトンネルみたいだ。

俺の備忘録も兼ねてベトコンと米軍のポジションを整理しよう。
「南ベトナム解放民族戦線(1960年結成)」の通称がベトコン。
(ちなみにベトコンは米軍兵が使ってた蔑称なんだけど、問題ないらしいし、ネット上で他の正式な呼び方も見当たらなかったので、俺もベトコンて呼ぶことにします)
「南ベトナムの独裁制から同民族を解放」するために結成された反政府勢力で、
ソ連の支援を受けてた北ベトナム側のグループ。
当時、南ベトナムはフランスの統治下にあり、
アメリカはソ連に対抗するため南ベトナム側を支援。
ベトコンと戦うことになった。
もっとざ〜〜〜っくり言うと、
反共産主義(アメリカ、南ベトナム)
VS 社会主義(ソ連、ベトコン、北ベトナム)

そして今日俺が来ているクチトンネルは、
ベトナム戦争中にベトコンによってゲリラ戦の本拠地として活用されたトンネル。
もともとフランス統治時代に造ったトンネルがベトナム戦争で日の目を見た。(トンネルだけど)
四方30kmに広がり、全長約250km。
カンボジアとの国境付近まで張り巡らされている。
トンネルを掘るにあたって重機は使わず、
下の写真のような昔ながらの農具を使っての人海戦術だった。
現物の摩り切れ具合から、当時の人々の気合が伝わってくる。


(クチトンネルを掘るために実際に使われた農具)


ベトコンは米軍が地上で大規模な作戦を展開するうちは地下に篭り、
隙をついて奇襲を仕掛けた。
夜になると外に出て畑の手入れをし、新鮮な空気を吸った。
太陽を浴びれない生活を月がなぐさめた。
トンネル内には負傷兵を治療する診療室や武器庫の他、
学校、キッチン、シアタールームまであった。
防空壕というよりも地下都市と呼ぶのがふさわしい。
それでも、生活はとても困難だった。
数千人が暮らすには水、食料、空気は不足し、ムカデ、サソリなど害虫も出た。
閉ざされた空間で寄生虫や伝染病はあっという間に広がり、大勢が命を落とした。
そんな生活を彼らは15年続けた。


(診療室)

(南軍の弾薬から火薬などを取り出している様子。
自分たちが使い慣れた武器に火薬を移して使った)

(トンネル内図。
アリの巣のような構造になっている。
政府はトンネルの全長を250kmとしているが、
全体について把握している人はいない)

実際にトンネルに入ってみる。
下の写真ではフラッシュを使っているので内部が見えるが、
通常、観光客にライトを渡されない。
中は狭く、膝をついて進むのがやっとの高さ。
這っても這っても続く闇。
指先に当たる落ち葉をかき分けながら進む。
ネズミとかゴキブリに触ったらやだな、
とか思うけど、見えないから一緒だとすぐ気づく。
落ち葉の乾いた音と自分の息の音。
聞こえるのはそれだけ。
土に吸収されて外の音はほとんど聞こえない。
居心地のわるい孤立感。
たかだか20mくらいのトンネルなのに、
外の明かりが見えた時の安心は大きかった。

(ここから入る)
(トンネルの中、実際は明かりを持たないので真っ暗)

ベトナム戦争で、米軍はゲリラに負けた。
ベトコンの作戦は古典的で、これで米軍の圧倒的な軍事力を打ち負かしたと思うと、感心してしまう。
例えばあちこちに仕掛けられた「落とし穴」。
底には毒針。
落ちた米軍兵が軽い傷でも20〜40分で死に至るように作られていた。
効果はあった。
落とし穴は敵を飲み込む以外に、罠を恐れる米軍兵の集中力を削いだ。
しかし、ベトコンは更に考えた。
米軍兵が死亡した場合、相手の兵力はマイナス1だが、負傷させた場合は補助に二人つくのでマイナス3になる。
そこで、彼らは針に汚物を塗ることであえて致命傷を負わせず、敵を破傷風にした。
なるほど。
(落とし穴)
(毒針)

そして、奇襲を仕掛けるために隠れる穴。
米軍兵が入れないよう、小柄なアジア人のサイズに作った。
なるほど。
(奇襲用の隠れ穴。
蓋をすると地面にうまくカモフラージュされる。)

あと、ベトコンの奇襲に手を焼いた米軍は、
シェパード犬を使ってトンネルの位置を暴こうとした。
ベトコンたちは犬が嗅ぎ慣れたアメリカ製の石鹸を使って体を洗ったり、
死んだ米軍兵の制服を着たりして犬の鼻を撹乱した。
犬が落とし穴などの罠の犠牲になることも多く、米軍兵を恐怖に陥れた。
なるほど。


こうしたベトコンの「知恵」を前にして、
米軍の最新兵器はなす術なく、
業を煮やした米軍はやみくもに破壊行為を続けた。
ついにはやけくそになって民間人も殺した(ソンミ村虐殺事件1969年)。
終わりの見えない戦争、増え続ける戦死者、
米軍による民間人虐殺のニュースは、
アメリカ国内外のベトナム戦争信仰をひっくり返した。
そして1973年、アメリカ軍撤退。
1975年、サイゴンが陥落してベトナム戦争は終結。
地下で生活し続けた人々はついにイデオロギーを守りきった。

(トンネルを一掃しようと、
米軍はナパーム弾を投下した。
しかし、ナパームの炎は熱帯雨林の水分を押し上げ、
雨を降らせ、自らの熱を冷ます。)





ここではライフルや機関銃の試し撃ちができる。
俺も機関銃を撃ってみた。

16発で2,000円しない。
16発もいらない。
オランダ人カップルと8発ずつ分け合う。
射撃場に入る前にヘッドフォンの装着を指示される。
ビックマックのように分厚いヘッドフォンだ。
射撃場に足を踏み入れる。
色んなタイプの機関銃が並んで設置されてる。
殺傷を唯一の存在意義とする人工物の寒々しい重量感。
地面には薬きょうが散乱していて、
機関銃の周りに貝塚みたく山を形成してる。
死を産むポテンシャルの抜け殻だ。
固定された機関銃に弾を装填して100メートル先の的に照準を合わせ、
トリガーに指をかけてゆっくり引く。
バァーーンと耳のビックマックを突き抜ける凶音に頭がツーンとなる
鼓膜の中で爆竹が弾けたような音量。
銃身のブレを防ぐために充てていた鎖骨への衝撃も凄まじい。
戦争映画の爆音はこれに比べたら子守唄。
実際の戦場では、隣の仲間の叫び声すら聞こえないだろう。
ホテルに帰っても耳のツーンが消えなかった。
あの音が今日も世界のどこかで平穏を裂く。
俺たちはスピーカーのボリュームでそれを聞く。