2013年7月5日金曜日

カンボジア:プノンペン 未来のつくりかた。


(画像:google )
(画像:google)

キリングフィールドを出るとプノンペンの市街地に戻った。
トンレサップ川沿いに淡いパステル色の建物が並ぶ
川を眺めようとすると、高さ20-30mはある堤防が町と川を隔てていて、見下ろした先に大きな船が行き交っている。
大小何隻もある船が時々ボーッと汽笛を鳴らす。
川の水はきれいではない。それでも水のある景色はやはり気持ちがいい。水のそば、という安心感もあるのかもしれない。大量の水の流れを見て昔から人々はホっとしてきたんだと思う。ぼくも何もせずしばらくボケーッとしていた。
しかし、キリングフィールドの衝撃的な光景が頭にこびりついて離れない。
無数の魂が浮かばれる日がいつか来るのだろうか。

(青空エアロビを楽しむ人々)

柱時計は午後4時を少し回ったあたりを指していた
陽はまだ高く、暮れるまで十分に時間がありそうだ。
タンクトップに短パン姿の男性が現れた。
肩にラジカセを担いでいる。
広場の真ん中で立ち止まると、ラジカセを置いてスイッチを入れた。
軽快な音楽が鳴る。
タンクトップの男性はリズムに乗ってエアロビを踊り始めた。
だんだん人が集まってきて、たちまち200人程の大集団になった。
みんな同じ動きをしている。
老若男女、犬を連れたり、小さな子どもを肩車している人もいる。
30分ほどして音楽が終わった。参加者がラジカセの横に置かれた小箱に小銭を投げ入れていく。
青空エアロビ教室だった。

一方、さらに奥の方では若者たちがサッカーをしていた。
始め12、3人で一つのボールを追いかけていたが、
こちらもじゃんじゃん人数が増えて30人近くまでふくれあがっていた。ゴールらしいものはなく、ペットボトルを2つ間隔を開けて置くことでゴールのかわりにしていた。
点を取ったチームがハイタッチしている。

(写真:Google)

ポル・ポト時代について、カンボジア人が仲間同士で話すことはほとんどないという。
誰が加害者で、被害者だったのかを語らない。
自分の家族を処刑台に送り込んだのはエアロビで隣にいる男かもしれないし、自分が密告したのはハイタッチをしたチームメイトの親戚かもしれない。
異常な時代について市民同士は掘り起こさない。
「裁いても豊かになれないなら、過去は振り返らない」

そういうことなのか。

今もポル・ポト派幹部数名の裁判は終わらない。
老いた被告や生き証人は法廷に立たなくなりつつある。
ある者は死に、ある者は認知に問題ありとされて釈放された。
これは裁きを先延ばしにして幹部が極刑を避けるためなのか。
アメリカ・中国がポル・ポト派を支援した過去を隠すためなのか。
歴史的大虐殺を主導した被疑者の権利を守るカンボジア特別法廷。
二百万人の犠牲者の魂は、被告たちが迎える安らかな死をどのように見届けるのだろうか。
暗すぎる歴史は光が当たらぬまま永久の眠りにつこうとしている。

釈然としない気持ちのままカンボジアを離れることにした。

2013年5月19日日曜日

カンボジア:キリングフィールド ポルポト派による大虐殺②



毎日、荷台に数十人の虜囚(りょしゅう)を乗せたトラックがやってくる。
トラックはゲートをくぐると、急ブレーキをかけて止まる。
荷台から吐き出すようにして虜囚が下ろされる。
彼らは手錠が外されないまま、ブロイラー小屋のような狭い建物に、ブロイラーのように押し込まれた。

「別の場所で働くことになった。」
虜囚は前にいた場所でそう聞かされてここにやってきた。
多くは自分に最後の時が近づいていることを察していた。
拷問や、過酷な労働から逃れられるなら「死」は安らぎに思えた。

毎晩、夜になると大きな音で音楽が流れる。
看守が扉を開ける。中から数人が呼び出された。
呼ばれた者は、胸ポケットの写真を引っ張り出して、そこに映る家族や恋人の顔を目に焼き付けた。
そして残された者に一瞥して鶏小屋をでると、看守とともに暗に消えた。
連れ出された虜囚はある場所に着くと目隠しをされる。
もう何も見えない。
鳴り響く音楽が聞こえるだけ。
看守が腕を引き、10歩くらいのところで地面に膝まずかせた。
何も見えない。
目の前のすえた匂いが鼻を突く。

看守の手にはスコップやバット、金槌。
銃ではない。
それを大きく振りかざした次の瞬間、命を失った体が暗い穴に転がり落ちる。

次の虜囚が連れてこられる。
看守は手に、地元人が鶏の首を切るのに使うトゲのついた植物を握っている。
看守は人間の喉にそれをあてた。
断末魔の叫びは大音量で流れる音楽に全てかき消された。




プノンペンにはS21の他にもう一つ、虐殺の歴史を伝える場所がある。

キリングフィールド。
処刑場だ。
カンボジア国内ではこうしたキリングフィールドが100ヶ所以上見つかっている。

収容所や集団農場で、労働力にならないと判断された人々がここに運ばれた。
また、拷問に耐えきれず、あらぬ罪を認めてしまった多くの民間人もここで処刑された。
俺が訪れたプノンペンのキリングフィールドからは、
すでに9000体近い遺体が見つかっており、
さらに掘れば1万体は挙るだろうと言われている。
しかしその1万体は湖の底、資金が足りず、掘り起こされるめどはたっていない。




辺は所々くぼんでいる。
くぼみは86個ある。
このくぼみは、遺体が埋められていた穴を掘り起こした跡だ。
深くえぐられた地形が30年間の風雨によってなだらかになった。
すでに虜囚を収容していた小屋などは取り払われていて、処刑場を連想させるものは何もない。
緑が生い茂り、風がそよぐ穏やかな場所だ。
歴史はすっかり角を落として丸くなってしまった。



ここを訪れる人々は入場料を支払うとヘッドフォンを渡される。
日本語の解説を聞きながらキリングフィールドを歩く。
歩いていると数字の書かれたプラカードが地面に刺さっている。
その数字を端末に入力すると、自分が今立っている場所で30年前に何が起きたのか、解説が流れる。
ロープでくくられたエリアで何が起こったのか、この土地がどれほど多くの血を吸ってきたのか。
ヘッドフォンの声が指示する通りに地面を見ると、骨や、衣服の切れ端が露出しているのが見えた。

(※注意! ここから、とても生々しい描写が始まります。弱い人は避けて下さい。)


キリングフィールドの中で、ひときわ異様な雰囲気を醸す木がある。
幹が無数のヘンプ(糸で編んだ腕輪)で埋め尽くされている。
訪れた観光客が捧げていく。
ある人はこの木の前に建てられたカードの文字を読んで涙を流している。

ここで起こったことは凄惨極まりない。



兵士は母親の目の前で乳児の両足をつかみ、頭部をこの木の幹に叩きつけた。
まだ柔らかな乳児の頭蓋骨は熟れたトマトのように弾け飛んだ。
幹にはいくつもの髪の毛が残っている。

さらに酷いことに、兵士たちは乳児の頭蓋骨を割ったあとで母親を強姦した。
この木のすぐそばから衣服を剥がされた女性の遺体が数百体見つかっている。





入り口の正面に慰霊塔が立っている。
音声案内に沿ってフィールド内を歩くと、最後にここに戻ってくる。
この慰霊塔はガラス張りになっていて中が透けている。
中はガラスの十数層のタワーになっていて、各層に犠牲者の頭骸骨がおさめられている。中に入ることができる。


中に入って頭蓋骨の破損した箇所を至近距離からみてみると、どんな物を使って撲殺されたのかが分かる。
空気の重さに胸が締め付けられる。
深く息を吸えない。

空洞になった無数の眼に見つめられているようだった。
彼らの悲しみや痛みの遺産から、訪れた人々は何を見い出せるだろう。
砂埃に埋もれさせてはならない遺産。
人類は砂埃を払う手を休めてはいけない。

カンボジアで、また世界各地で起きた戦争や紛争、ホロコースト。
犠牲者たちは、現代を生きる人々が平和の獲得を怠ることを絶対に許さない。
平和の獲得こそ、人間がやめてはならない戦いだ。

2013年4月30日火曜日

カンボジア:プノンペン ポル・ポト派による大虐殺①

このページを開いてくれた皆さん、ありがとうございます。
アジア旅から帰って一と月が経ちました。
日記を書いていると旅を思い出します。
さて、今回はカンボジアで起きたポル・ポト派の大虐殺の史跡を数回に渡ってレポートします。
掲載写真、とても強烈です。骸骨や血の写真が出てきます。
この地で見たものは僕に強い印象を残しました。
施設を歩いていると、こんな二元論的な考えが頭に浮かびました。
「人間は、幸福を追求し、未来へ邁進する傍らで、
絶対的な不幸をも視野に入れていないといけない。」
つまり、豊かな国の人々こそ深く、世界の不幸に取り組む必要があるのです
当時を体験しない僕が異国の惨劇について主観で書くため、
専門的な見識をお持ちの方からの批判もあるかもしれません。
ですが、この旅日記は読者に世界への関心を深めてもらうことを目的にしていて、
その目的に向けて、自分なりに苦悩しながら書いています。
その点、ご理解いただきますようにお願いします。
また、歴史事実の誤認等があればご指摘いただけると幸いです。

大嶋敦志


S21(トゥールスレーン収容所)規則
.質問に対して、きちんと返事をすること。ごまかしてはならない
2.事実を隠蔽してはならない。尋問係を試してはならない。
3.革命の邪魔をしようなどと愚かな考えを持たない。
4.聞かれたことには即座に答える。
5.背徳も反逆も認められない。
6.電気を受けている最中に泣いたり叫んだりしてはならない。
7.何もせず、じっと座ってわたしの指示を待つこと。
指示がなければ大人しく、指示があれば即座にそれを実行すること。反論は認めない。
8.自分の素性を隠してはならない。
9.上記のルールに従わなかったものは何度でも電線の刑に処す。
10.この規則に従わない場合は電流10回か電気ショック5回の刑に処す。


当時、この建物はS21(トゥールスレーン収容所)と呼ばれて、ポル・ポト派が元中学校の校舎を改装した「更生施設」だ。
収容されたのは20000人、生きて出たのは8人。
この施設で、カンボジア人によるカンボジア人に対しての拷問と殺戮が行われた。
尋問員は時には家族や友人に拷問を加え、ありもしない罪を認めさせ、処刑した。
爪を抜き、指を切り落とし、ありとあらゆる苦痛をあたえた。
現在、この施設は博物館として一般に開放されている。
拷問に使われた器具や、人々が収容されていた雑居房、写真など、貴重な資料を見ることができる。
 (独房群)
 (手前の床に付着した血痕が見えるだろうか。)


中を歩くとところどころ床に茶色いシミが付着している。
拷問を受けた人々から落ちた血液だ。
階段の踊り場の壁には弾痕と、同じようなシミが無数に張り付いている。
1979年にベトナム軍によって攻められた時、ポル・ポト兵は逃げる前にここにいた人々を全て殺害した。
壁の傷や滲みはその時のものと思われる。

人間ではなく、鬼の仕業。
そう伝えるのがふさわしい。

館内は息が詰まる。
拷問に傷ついた体を引きずって歩き、独居房でうずくまる犠牲者のうめき声が聞こえてくるようだ。

(この木枠は・・・) 
(このように使われた。)

 (この上のフックに縄をかけ逆さまに人を吊るした。
下の水瓶で受刑者が溺れて気を失うと、尋問員は糞尿を溜めた壷に顔を入れた。
受刑者は刺すような匂いで意識を取り戻した。
そしてまた同じことが繰り返された。)

 (鉄のベッド:この窪みはどのようにできたのだろう。床には赤茶のシミがこびりついている。)


ポル・ポト派を知らない人のために簡単に説明する。
1976年、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュは、国内の混乱に乗じて首都プノンペンを奪い取った。
クメール・ルージュは農業主体の共産主義国家の設立こそユートピアと掲げ、当時の教育の乏しい農民層の支持をすぐに集めた。
「文明は腐敗物だ」と通貨や教育といった社会機能を否定し、都市を破壊し、そこに住む人々を年齢や性別ごとに集団農場に送りこんだ。
多くの家族が引き裂かれた。
クメール・ルージュの革命とは「完全に平等な社会の建設」だ。
もっと言えば原始的な生活だ。
格差なく、最低限のつつましい暮らしが平和をもたらすと考えていた。
そのため前述したとおり、経済や教育など、格差の要因となりうるものを徹底的に規制した。
人々は物々交換で暮らすことをしいられ、過酷な強制労働に従事させられた。
当然こんな人間性を無視した革命、失敗する。
人々の暮らしは苦しくなり、不満が募り始めた。
政権の雲行きが怪しくなり、ポル・ポト派首脳部は焦った。
その結果が市民虐殺だとされる。
政策失敗の原因を、知識人になすり付け、医者、学者、教師をはじめ、一定以上の教育を受けた人々を強制収容所に送り込んだ。
「腐敗した知識をもとに革命の邪魔をしている」として。
(2005年のカンボジア人口ピラミッド。
ちょうど「25〜29歳」以上の人口が異様に少ない。)

この時代にカンボジア人の3分の1以上が「革命」の犠牲になった。
当時のカンボジア人口が800万とされる。
300万人が殺された。(資料によって数は異なる。)
上が現在のカンボジアの年齢別人口統計表。
25才以上の人口が不自然に少ないのが分かる。

プノンペン。
ここはかつて、
ドイツのヒトラーによるユダヤ人迫害や、
中国の毛沢東による文化大革命、
ロシアのスターリンによる大粛清と並んで称される大虐殺が行われた場所。

人間が生み出せるもっとも痛ましい地獄がここにもあった。

つづく

2013年4月2日火曜日

カンボジア:ベンメリア遺跡 「世界のリアル」の至近距離


アンコールワットから40kmにある、森に眠る遺跡「ベンメリア」がヨーロッパ人の狩人に発見されたのは1990年代。
(カンボジア人はもっと前から存在を知っていたので、これは西洋視点での発見時期。)
そして2001年に観光客に開放された。

この遺跡は楽しい。
自然の浸食によって崩壊が進み、遺跡内にはかつての建造物から崩れ落ちた大きな石がうずたかく積みあがっている。
遺跡というより、瓦礫山といった方が近い。
石の山をよじ上って遺跡内を探検するので、アスレチックみたいだ。
遺跡探検を終えると汗だくになるほど、アドベンチャーを体験できる。



ここには宿で知り合った日本人とグループで行った。
ワゴン車とドライバーをみんなでお金を出し合ってハイヤーしたので、一人数百円で済んだ。

朝早くから集まって、1時間かけて赤土の道をすすむ。
途中、茅葺きの家々が連なる集落を通る。
多分、この辺りは電気もない。
家の中のシンプルな暮らしを想像するのが楽しかった。



遺跡の入り口に立つと、奥に石の山が見える。
バタバタと巨石が倒れていて、巨人が暴れたようだった。
ここは「天空の城ラピュタ」のモデルになったらしい。
たしかにここは「自然と文明」というテーマで哲学するのにはうってつけの場所だ。
奥に行くと、植物と遺跡が絡まりあう異様な光景が広がる。
石を踏んづけながらさらに奥にいく。








玄関をくぐり、遺跡の中に入ろうとした時、岩の上でおばちゃんがこっちよと手招きをしてきた。
周りには彼女と同じジャケットを来た人が何人もいる。
多分、市のガイドか何かなのだろう。
でも後で多額のチップを要求される可能性があるので注意は必要だ。
着いていくかどうかグループで話し合った。
人数がいたので、どうにかなるさ、と彼女についていくことにした。






おばちゃんは軽快なステップで、石の山を登っていく。
熟練の眼で、ここは危ないとか、ここは大丈夫だとか見分けていく。
彼女に案内されるまま、塀の上をつたい、ガジュマロの枝でブランコをし、高さ15mの石山に登った。
遺跡を遊び場にしている地元の子どもが岩と岩の間をジャンプする。
高い所で片足立ちをして、見て見て〜と観光客に自慢している。
こんな贅沢なアスレチック、きっと世界中どこにもない。


おばちゃんに連れられるまま、ベンメリアの遺跡を登ったり降りたりしているうちに、少し開けた場所に出た。
あたりは木や草がなく、砂地だ。
おばちゃんがすっと立ち止まってこちらを振り返り、地面を指差した。
そこは窪んでいる。
「ランマイ・・・」
おばちゃんはそう言った。
最初、何の事だか分からなかった。
俺たちがキョトンとしていると、彼女はズボンの裾をめくった。
その部位は光を反射している。

義足だった。

ランマイとはランド・マインのこと。
地雷。
彼女の足は地雷によって吹き飛ばされていた。
こんな至近距離に、メディアで見た戦争がある。

彼女はニコッと微笑むと、また俺たちのガイドを続けた。
石の山を平気な顔をして登っていく。
この人はとてつもなく強い。
最初に金の心配をした自分が恥ずかしくなった。

カンボジアは内戦の傷がまだ癒えていない。
戦中600万個埋められた地雷は、撤去が進められた現在でも毎年200人以上の手足をもぎ取り、命をむしり取っている。

カンボジア内戦について知る必要性を感じた。
内戦とはつまり、カンボジア人がカンボジア人を殺すということ。

明日、カンボジアの首都プノンペンに行く。
そこには、ポル・ポト派による虐殺の歴史が生傷のまま残されている。

2013年3月28日木曜日

カンボジア:アンコール遺跡 文明と自然

シェムリアップを訪れる観光客がアンコールワットで朝日を見るのが慣例らしい。
5:00に宿を出て5:30の朝日を見るという日程。
全日は夜遅く、タイからの移動の疲れが残っていたので、少し考えたけど、アジア旅の残日数が限られていたので、がんばって早起きした。
バイクタクシーをチャーターして遺跡を一日めぐる。
俺が後ろに座った合図をすると、ドライバーが2,3歩地面を蹴って、俺たちを乗せたバイクは道路を走り出した。
カンボジアの朝の空気は冷たかった。


宿から約7km移動してアンコールワットに着く。
辺りはまだ暗い。
懐中電灯で地面を照らす人もいる。
俺は懐中電灯を持ってこなかったので、他の人の光を辿ってに本堂がある中へと進む。
たくさんの観光客が同じ方向に歩いていく。
いろんな国の言葉が飛び交っている。



俺が朝日スポットに着いたころには空が色付いてきていた。
すでにそこには大勢の人がご来光を待っている。




5:30を少し回ったころ、アンコールワットの背後から、太陽が顔を出した。
周りでシャッターを切る音が止まない。
俺は今、アンコールワットにいる!!!





アンコール遺跡は9世紀から15世紀までこの地で栄えた「クメール王朝」の各時代の王によって築かれた。
オートバイで回っても一日かかるほどの広大な土地にいくつもの遺跡が存在する。
まだその全貌は明らかになっていない。
王が変わるたびにこうした建築物を建てていたというから相当の数があるんだろう。
あるものは寺院として建設され、あるものは都市機能を備えていた。


各遺跡には細密な浮彫りが施されている。
しかしこうした細部の装飾は王が変わると中止になったので、ところどころ未完成だったりする。
こうした装飾は宗教的な意味を持つものと、当時の生活風景を描いたものがある。
この王朝は何教だったかというと、仏教だったり、ヒンドゥ教だったり時期で別れる。
その時の王によって仏教になったり、ヒンドゥ教になったりするので、遺跡を見てみると、両方の宗教のエッセンスが混在している。

☆有名な遺跡、年代順
ベンメリア:11世紀後半から12世紀前半(寺院)

アンコールワット:12世紀前半(寺院)

アンコールトム:12世紀後半(都市)

タプローム:12世紀後半(寺院)

クメール王朝は9世紀に興り、12世紀後半で最盛期を迎え、1431年にタイ人に侵略されて終わる。当時のクメール人は南に逃げて、そのまま戻らなかった。
この時、持ち主のないクメール王朝は「遺跡」になった。
アンコール遺跡を歩くと、建築物よりも、自然のもつエネルギーに圧倒される。
特にタ・プロームとベンメリアの、樹齢300年の巨大なガジュマロが遺跡に絡む光景は凄まじい。

「盛者必衰の理」の通り、文明は消えた。
その後、自然がここに繁茂し、支配を始めた。
現代の人間はそのアンコールを再発見し、遺跡を前に議論している。
「アンコールのガジュマロは遺跡を握りつぶそうとしているのか、遺跡を包み込もうとしているのか」
破壊の過程なのか、共存の過程なのか。

その場に立つと、遺跡に絡み付くガジュマロが、おもちゃと遊んでいるように見える。
自然が大きく、文明が小さく見える。





2013年3月25日月曜日

カンボジア:シェムリアップ 英語で活きる

タイに滞在中ほぼ毎日医者に通った。
午前中病院に行って、午後は出かける、というのを繰り返していた。
バリで負った傷は2週間過ぎても、3週間過ぎても良くならなかった。
少し焦っていた。
このまま治らなければ、旅に差し支える。
旅の充実度がグンと減る。
だから、少しでも早く良くなるように毎日医者に通った。
予約した時間に病室に行くと、医者が傷口のガーゼをとって傷をほじくった。
悪くなった皮膚を切り取って、再生を早めるためだ、と。
毎日訪れる痛みの時間。
我慢して耐えた。
早く全開で旅に臨むためだ。
俺は治療が終わる度に、治癒するのにあとどのくらいかかるか、医者に聞いた。
医者の答えは毎日違っていた。
毎日、医者が変わっていたんだ。
俺は毎日英語で同じ説明をして、同じ質問をする。
医者が返す言葉はそれぞれ違う。
だんだん不安になって、いらだってくる。
一週間ぐらい通い続けた後で、病院に行くのを止めた。
タイからも離れる事にした。

4つ目の国はカンボジア。
アンコールワットを目指す。
朝8:00のバスでバンコクを出た。
一緒のバスに乗っていたのは、アメリカ人、ドイツ人、オーストラリア人、日本人、イタリア人、イギリス人。
俺の英語は上達している。
道中彼らとの英語でのコミュニケーションに困らず、ひどくモタつく入国手続きを待つ間も、他の旅行者と楽しく過ごせた。
多分、病院で必死でやり取りをしていたのがよかったんだろう。
ケガが英語の上達につながるとは「塞翁が馬」だね。

(カンボジアの国境を越えてすぐに目に飛び込んできた山積みの荷物を運ぶ車両。)


(ず〜と地平線を両側に見ながらの移動。
この景色が国境を越えてから4時間続く。
地平線はずっと見ててもあきない)
長い道のりだった。
13時間かかってようやくシェムリアップに着いたのは夜9時。
辺は暗い。
バスを降りるとトゥクトゥクのドライバーが群がってくる。
行き先を告げると明らかに高額な料金を吹っかけてくる。
交渉しても値を下げない。
あたりは暗く、俺たちは土地勘のない外国人。
こちらの足下を見ている。
いいよ歩くから、と彼らを振り切り、今まで乗ってきたバスのドライバーに道を聞くと、知らないからトゥクトゥクに聞けと言う。
グルだ。
そう言えば、バスの休憩回数が予定していたよりも多かった。
そのせいで到着が3時間遅れてる。
何かで読んだことがある。
到着を遅らせて、マージン契約のあるホテルに客を送り込もうとする、チームプレーみたいなのが存在する。
多分それだ。
相手がこちらをカモとして見るなら、もうフレンドリーになる必要はない。
しっかりしないとズルズルぼったくられていく。

相乗りできそうな他の旅行者を探す。
同じ方角に向かう人を見つけると、すぐにドライバーが声をかけてきた。
彼の言い値は500円、おそらく相場の三倍。
それを一人ずつ払えと言う。
日本人に払えない金額じゃない。
だけど、彼らはその金額を欧米人には提示しない。
それが悔しかった。
日本人は英語で交渉できないから、吹っかけるだけ払うと思われている。
200円まで値切る。
これでも現地価格に比べたら大盤振る舞いだ。
当然相手は首を横に振る。
こんな交渉をしてみた。
「周りを見てごらんよ。旅行者とドライバーどっちが多い?ドライバーだろ。この金額でも現地価格よりはいいはずだ。この金額で行けないならあなたには頼まないよ。他のドライバーに頼む。あなたはまた別の客と交渉を始めるんだ。きっともう旅行者を乗せたバスは来ないだろうから、この状況だと客を逃して今日は終わりだろう。どうだい?」
ドライバーはしょうがないといった表情でOKした。
ドライバーはトゥクトゥクを走らせながら、俺が行く宿はいっぱいだから、彼が知る宿に行こうと誘ってくる。
彼の提示した宿の金額は安くていいんだけど、運ちゃんに言われるまま着いていってバリで嫌な思いをしていたから、敬遠した。
とにかく俺が指定した宿に向かってくれるように頼む。

目的地に着くとドライバーと少し話した。
根はいい人だ。
やはり「円」がもつ魔力が、ときどき彼を変えてしまうのだと思う。
ざっくり値切って悪い気がした。
彼の生活は苦しいんだ。
ドライバーはすぐそばにいた菓子売りからひと掴みの菓子を買うと、一つどうかと差し出した。
手の上にのっていたのは「ゴキブリフライ」だった。
あまりに急なおすすめで食えなかった。
なのでゴキブリの味はリポートできない、ごめん。

始めて日本人宿に泊まってみた。
アンコールワットは今回の旅の目玉なので、母語で丁寧にプランニングしたかった。
玄関脇にある食堂に大勢日本人がいる。
ほとんど大学生くらいの年齢だった。
久々の日本語。
ビールを頼んで、向かいに座っていた人をつかまえて話し込む。
舌が止まらない。
日本語が恋しかった。


2013年3月24日日曜日

タイ:セックス産業について




何で読んだのか覚えていないけど、タイを訪れる日本人男性の7割が買春をしているらしい。
カオサンロードなどで会った日本人と話をすると、やはりそのくらいかそれ以上だと思う。
買春と聞くと、お金のある中年男性が若い女の子を金で買うのをイメージするけど、案外、旅行で来てる大学生がグループで歓楽街に出かける話をよく聞く。
つまり彼らがバイトで稼いだ金で行けるくらい、タイの買春相場は安いという事だ。
ネットで調べると高くても10000円、安いと3000円程度で本番行為が可能とのこと。
日本の相場の3分の1程度のようだ。

売買春については賛否両論。
国によっては合法化されているところもある。
下の地図は世界の売買春の法律を色分けしたもの。

赤は違法、緑は合法、青は条件を付けて合法。
これを見るとヨーロッパの先進国に合法化の傾向があるのが分かる。
東南アジア全域は赤。
しかし違法としている国でも、婚前SEXを認めないイスラム国家であるマレーシアでさえ買春街が存在する。
こうした場所には店側と警察との裏取引がある。

タイのセックス産業はこんなにも有名だけど、タイも違法だ。
GDPのうち約9%を占める観光業とセックス産業が密接に関わっているために、タイ政府もあまり踏み込まないのだろうか。

こうした外国での売買春について俺は反対派だ。
賛成派の意見では、お金が必要な人が金を稼ぐ手段だとか、職業選択の自由だとか、人類最古のビジネスだとか、色々ある。
それはそれで分かるんだけど、この発想は買う側の自己弁護だ。
売る側の本心や、売るに至った背景があまり加味されていない。
タイのセックスワーカーの9割が「十分なお金があればこの仕事を辞める」という。
もちろんやりがいを持って仕事に取り組んでいる人もいるけれど、お金がなくて、もしくは贅沢がしたくて人が体を売るという構図は、資本主義・物質主義による強姦のように思える。

タイのセックスワーカーの出身地で多いのが北部と東北部だという統計がある。
約8割がこの地域の出身だ。
この辺りは貧しい。
貧しいから出稼ぎにくる。
貧しい人がセックス産業を使う。この流れは「ビジネス」かもしれない。
ただ、貧困とセックス産業がパイプでつながると、その流れは逆流する可能性がある。
セックス産業が貧しい人を使う。この流れは「人身売買」につながる。
貧困国では借金のカタなどに少女が売られ、レイプや暴力を受けたという報告がたくさんされている。日本でも、何年間も売春を強要されていたアジア人女性が支配人を殺害する事件が起きている。

http://www.npo-gina.org/pasd/GINA/sub4-p.htm

俺は日本人が日本の風俗に行く事になんとも思わない。
タイ人がタイの風俗に行くのもいいと思う。
でも、豊かな国の通貨が、貧しい国の産業に与えるインパクトはあまりにデカイ。
先進国の人々が歓楽街に支払う「円」「ドル」「ユーロ」の魔力が、人身売買などのセックス産業の闇の部分の拡大に影響している事は間違いないと思う。





俺が外国での売買春に反対な理由はもう一つある。
HIVの脅威。
下の地図は世界のHIV人口比を表している。
(このリンクからジャンプすればもっと大きな地図を開ける。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2260.html)


赤がセックスワーカーのうちHIV感染者の割合。
青が男性間行為者のうちHIV感染者の割合。
緑がドラッグ注射者の割合。
棒グラフの長さではなく、ぜひ上のリンクを開いて数字を見て欲しい。
どれぐらい海外での売買春が危険かがよく分かる。
タイのセックスワーカーのHIV感染率はここには出てこないけれど、別の統計では週20人以上客を取るタイのセックスワーカーの67%がHIV感染者という数字が出ている。
2〜4人の客を取るワーカーでも30.8%だ。
(http://www.npo-gina.org/pasd/GINA/sub4-F.htm)
これはもの凄い数字だ。

HIVは現代では死なない病気だと楽観視する声もあるけど、実際にHIVになりたいかというと、絶対になりたくない。
日本に比べて金額が安いからと、途上国で売春をするリスクは、その対価に比べてあまりに大きすぎる。
UK国籍の異性愛者のHIV感染者のうち69%が海外で感染していて、そのうちの22%がタイで感染したという。(http://www.npo-gina.org/pasd/GINA/sub4-F.htm)
決して脅すつもりはないんだけど、もしも過去に経験がある人がいたら、性病検査を受けてほしい。保健所など無料で匿名で受けれる。
性病検査は日本ではあまり馴染みがないけれど、俺の友人は半年に一回くらいの割合で定期的に受けている。


今回少し固い話になった。
タイのピンポンショーを見てからいろんな疑問が湧いたので、web上の資料を読みあさってみた。
売買春についていろんな考えがあると思う。
もしも今回の投稿で気分を悪くする人がいたら、俺の個人的なメモだと思って欲しい。

最後まで読んでくれてありがとう。