2016年10月24日月曜日

ベトナム:クチトンネル

お詫び
今回、写真は全てGoogle photoから借りてきています。
自分で撮った写真はどうやら何かのトラブルがあったようで見当たりません。
今も探していますので見つかり次第、変えていきます。
持ち主の方が当ブログを訪問されることがありましたら、ご容赦頂けると幸いです。
削除の要請などありましたたすぐに対応させていただきます。
コメント欄にご記入ください。
大嶋敦志



朝、クチトンネル行きのツアーバスがホテルの前にやってきた。
ガイドに自分の名前を告げて空いてる席に座る。
バスの中には既に20名くらい。
日本人は俺だけだった。
バスは郊外に向けて走る。
クチトンネルまでは西北へおよそ70km、80分程度の道のり。
途中、ベトナム戦争で敗北した南軍と、勝利した北軍のそれぞれの集落を見る。
社会主義国なのに建物の外観から格差を感じた。






クチトンネルに行く途中、バスは「HANDICAPPED  HANDICRAFTS」という土産物屋で止まった。
直訳すると「障がい者工房」。
障がいを持つ人々が民芸品を作って販売している。
彼らが職人としての働き、共同で生活している。
ここでは主に、たまごの殻をタイルのように貼り合わせて繊細なモチーフを表す「エッグシェル・クラフト」の食器やアートワークが購入できる。
びっくりするほどクオリティが高い。

この工房で働いている人の多くが先天的な障がいを持っている。
年齢層から察するに、ベトナム戦争時に米軍が撒いた枯れ葉剤が影響した可能性が高い。
しかし、ガイドの話では、米軍への恨みを口に出す人はあまりいないという。
枯れ葉剤が原因で自分が障がいを持って生まれたことを認めたがらない人もいるらしい。
彼らは仏教の死生観の中で生き、前世で冒した罪を今世で償っている。
そして、今世を誠実に生きることで来世の幸せを待っている。
とても胸が痛んだ。
でも、これも宗教が人の心を救っている一つの例かもしれない。




車は工房を出て再びクチトンネルに向かう。
現地に到着して車を降りるとゴム林の中を進む。
静かな林に伸びる小道がタイムトンネルみたいだ。

俺の備忘録も兼ねてベトコンと米軍のポジションを整理しよう。
「南ベトナム解放民族戦線(1960年結成)」の通称がベトコン。
(ちなみにベトコンは米軍兵が使ってた蔑称なんだけど、問題ないらしいし、ネット上で他の正式な呼び方も見当たらなかったので、俺もベトコンて呼ぶことにします)
「南ベトナムの独裁制から同民族を解放」するために結成された反政府勢力で、
ソ連の支援を受けてた北ベトナム側のグループ。
当時、南ベトナムはフランスの統治下にあり、
アメリカはソ連に対抗するため南ベトナム側を支援。
ベトコンと戦うことになった。
もっとざ〜〜〜っくり言うと、
反共産主義(アメリカ、南ベトナム)
VS 社会主義(ソ連、ベトコン、北ベトナム)

そして今日俺が来ているクチトンネルは、
ベトナム戦争中にベトコンによってゲリラ戦の本拠地として活用されたトンネル。
もともとフランス統治時代に造ったトンネルがベトナム戦争で日の目を見た。(トンネルだけど)
四方30kmに広がり、全長約250km。
カンボジアとの国境付近まで張り巡らされている。
トンネルを掘るにあたって重機は使わず、
下の写真のような昔ながらの農具を使っての人海戦術だった。
現物の摩り切れ具合から、当時の人々の気合が伝わってくる。


(クチトンネルを掘るために実際に使われた農具)


ベトコンは米軍が地上で大規模な作戦を展開するうちは地下に篭り、
隙をついて奇襲を仕掛けた。
夜になると外に出て畑の手入れをし、新鮮な空気を吸った。
太陽を浴びれない生活を月がなぐさめた。
トンネル内には負傷兵を治療する診療室や武器庫の他、
学校、キッチン、シアタールームまであった。
防空壕というよりも地下都市と呼ぶのがふさわしい。
それでも、生活はとても困難だった。
数千人が暮らすには水、食料、空気は不足し、ムカデ、サソリなど害虫も出た。
閉ざされた空間で寄生虫や伝染病はあっという間に広がり、大勢が命を落とした。
そんな生活を彼らは15年続けた。


(診療室)

(南軍の弾薬から火薬などを取り出している様子。
自分たちが使い慣れた武器に火薬を移して使った)

(トンネル内図。
アリの巣のような構造になっている。
政府はトンネルの全長を250kmとしているが、
全体について把握している人はいない)

実際にトンネルに入ってみる。
下の写真ではフラッシュを使っているので内部が見えるが、
通常、観光客にライトを渡されない。
中は狭く、膝をついて進むのがやっとの高さ。
這っても這っても続く闇。
指先に当たる落ち葉をかき分けながら進む。
ネズミとかゴキブリに触ったらやだな、
とか思うけど、見えないから一緒だとすぐ気づく。
落ち葉の乾いた音と自分の息の音。
聞こえるのはそれだけ。
土に吸収されて外の音はほとんど聞こえない。
居心地のわるい孤立感。
たかだか20mくらいのトンネルなのに、
外の明かりが見えた時の安心は大きかった。

(ここから入る)
(トンネルの中、実際は明かりを持たないので真っ暗)

ベトナム戦争で、米軍はゲリラに負けた。
ベトコンの作戦は古典的で、これで米軍の圧倒的な軍事力を打ち負かしたと思うと、感心してしまう。
例えばあちこちに仕掛けられた「落とし穴」。
底には毒針。
落ちた米軍兵が軽い傷でも20〜40分で死に至るように作られていた。
効果はあった。
落とし穴は敵を飲み込む以外に、罠を恐れる米軍兵の集中力を削いだ。
しかし、ベトコンは更に考えた。
米軍兵が死亡した場合、相手の兵力はマイナス1だが、負傷させた場合は補助に二人つくのでマイナス3になる。
そこで、彼らは針に汚物を塗ることであえて致命傷を負わせず、敵を破傷風にした。
なるほど。
(落とし穴)
(毒針)

そして、奇襲を仕掛けるために隠れる穴。
米軍兵が入れないよう、小柄なアジア人のサイズに作った。
なるほど。
(奇襲用の隠れ穴。
蓋をすると地面にうまくカモフラージュされる。)

あと、ベトコンの奇襲に手を焼いた米軍は、
シェパード犬を使ってトンネルの位置を暴こうとした。
ベトコンたちは犬が嗅ぎ慣れたアメリカ製の石鹸を使って体を洗ったり、
死んだ米軍兵の制服を着たりして犬の鼻を撹乱した。
犬が落とし穴などの罠の犠牲になることも多く、米軍兵を恐怖に陥れた。
なるほど。


こうしたベトコンの「知恵」を前にして、
米軍の最新兵器はなす術なく、
業を煮やした米軍はやみくもに破壊行為を続けた。
ついにはやけくそになって民間人も殺した(ソンミ村虐殺事件1969年)。
終わりの見えない戦争、増え続ける戦死者、
米軍による民間人虐殺のニュースは、
アメリカ国内外のベトナム戦争信仰をひっくり返した。
そして1973年、アメリカ軍撤退。
1975年、サイゴンが陥落してベトナム戦争は終結。
地下で生活し続けた人々はついにイデオロギーを守りきった。

(トンネルを一掃しようと、
米軍はナパーム弾を投下した。
しかし、ナパームの炎は熱帯雨林の水分を押し上げ、
雨を降らせ、自らの熱を冷ます。)





ここではライフルや機関銃の試し撃ちができる。
俺も機関銃を撃ってみた。

16発で2,000円しない。
16発もいらない。
オランダ人カップルと8発ずつ分け合う。
射撃場に入る前にヘッドフォンの装着を指示される。
ビックマックのように分厚いヘッドフォンだ。
射撃場に足を踏み入れる。
色んなタイプの機関銃が並んで設置されてる。
殺傷を唯一の存在意義とする人工物の寒々しい重量感。
地面には薬きょうが散乱していて、
機関銃の周りに貝塚みたく山を形成してる。
死を産むポテンシャルの抜け殻だ。
固定された機関銃に弾を装填して100メートル先の的に照準を合わせ、
トリガーに指をかけてゆっくり引く。
バァーーンと耳のビックマックを突き抜ける凶音に頭がツーンとなる
鼓膜の中で爆竹が弾けたような音量。
銃身のブレを防ぐために充てていた鎖骨への衝撃も凄まじい。
戦争映画の爆音はこれに比べたら子守唄。
実際の戦場では、隣の仲間の叫び声すら聞こえないだろう。
ホテルに帰っても耳のツーンが消えなかった。
あの音が今日も世界のどこかで平穏を裂く。
俺たちはスピーカーのボリュームでそれを聞く。

2015年6月12日金曜日

ベトナム:ホーチミン ドラッグに奪われた時間



カンボジアのプノンペンからバスでおよそ六時間
ベトナムのホーチミンに着いた
午後一時、安宿を探すがベトナムの物価は他の国に比べると高い
なんとか1200円くらいのホテルが集まっているところを見つけた。
重要なのはスタッフの人柄。
お客が欲しいのは分かるんだけど、
みんながっつきすぎ。
一番がっついていないところに決めた。

ホーチミンには一泊しかしない
明日の夜にはベトナムの首都ハノイに飛ぶ
ハノイへのフライトまで24時間以上あるので、
限られた時間の活用に集中する。
明日の朝からのクチ・トンネルへのツアーを申し込むことにした。
世界の安宿にはツアーの案内がある。
宿が企画しているものもあれば、
地元の業者と提携していることもある。
英語がある程度分かるなら、是非おすすめしたい。
現地価格で観光が楽しめるし、他の旅行者と仲良くなることも多い。
ローカルの人々が組むパッケージになるので、
他の日本人観光客とは違った経験が得られることもある。




ホーチミンの町を歩いた
ドイモイ政策下の社会主義国を見学に行く
「ドイモイ政策」をざっくり言うと、資本主義をほど良く受け入れていく政策
例えば、社会主義の国なのにアメリカのファストフード店を見かける
コーラも飲める
ざっくりすぎてごめんなさい・・・




ベトナムの米麺、フォーを食べる
透明なスープに麺と薄いチャーシューともやしが浮かんで400円
高い!
こんなの日本でも400円で食える
吉野家の牛丼の方が全然いい
でも、気を取り直してまた歩く
有名らしい教会に着いた
どこか殺風景で特別な感情やインスピレーションは湧かない
教会をぐるっと一周してみる
小さな公園があった
物凄い人口密度
若者たちがあちこちにかたまって座って話している
所狭しと密集していて人がブドウみたいだ。
何人かうまそうなものを食っている
フォーのリベンジがしたい
彼らはきっと安くてうまいものを知ってる
しかし会話に割って入る勇気が出なかった。


ホテルまで帰るとまだ少し明るかった
近くの広場で少しギターを弾くことにした
俺の向かいのベンチでは男娼が客と交渉をしている
さっきから綺麗な女の子と目が合うが、彼女も多分「彼」なので
声をかけるのはやめておく
30分くらいギターを弾いていると、大学生くらいの若者が声をかけてきた
彼はトンといい青年会の遠征でタイから来ていた
簡単な語彙だが英語がうまい
話し方から誠実さが伝わってくる
日本人と始めて話すらしい
英語が通じることを喜んでくれた
どんどん深い話題へと進み、
その爽やかな見た目からは想像もできない自身の過去を語ってくれた

トンは10代前半に仲間の勧めでドラッグに手を出し、
15才の時にはすでにドラッグ中毒になっていた。
高校も行けなくなり、家庭では暴れるか無気力かの廃人だった
家族の勧めでリハビリ施設に入り、治療を開始する。
3年後、家族の支えと、本人の意志の力で、
ようやく地獄のような禁断症状を乗り越えた。
当時18歳。
高校にもいけず、すで青春の大部分を奪われていた。
将来を悲観視していたが、家族が話していた「国際交流」に強い関心をもった。
医者にはドラッグの後遺症で脳の機能が完全でないことを告げられていたが
猛勉強して一年後、国際交流活動が活発な大学に進学した。
そして今日、国際色豊かな仲間とベトナムに来て、
初めて日本人と話している。
英語は始めてまだ半年だという。
凄く上手だ。
トンはドラッグのことを後悔している。
失った時間は取り戻せない、と。
自分は遅れているのだ、と。
トンはそこまで話し終わるとそのまま黙った。
眉をくいっとしかめ、無言で俺に人生の先輩としてのアドバイスを求めている。
言えることはない。
こんなこと乗り越えたことない。
でも、人生の先輩ヅラをしたまま、
「支えられたなら、次は支える番だね」と言った。
何も言わないことだけ、この場では不正解だった。

今でも自分の言葉を思い出す。
そして恥ずかしくなる。
今でもトンの方が上だと思っている。

2013年7月5日金曜日

カンボジア:プノンペン 未来のつくりかた。


(画像:google )
(画像:google)

キリングフィールドを出るとプノンペンの市街地に戻った。
トンレサップ川沿いに淡いパステル色の建物が並ぶ
川を眺めようとすると、高さ20-30mはある堤防が町と川を隔てていて、見下ろした先に大きな船が行き交っている。
大小何隻もある船が時々ボーッと汽笛を鳴らす。
川の水はきれいではない。それでも水のある景色はやはり気持ちがいい。水のそば、という安心感もあるのかもしれない。大量の水の流れを見て昔から人々はホっとしてきたんだと思う。ぼくも何もせずしばらくボケーッとしていた。
しかし、キリングフィールドの衝撃的な光景が頭にこびりついて離れない。
無数の魂が浮かばれる日がいつか来るのだろうか。

(青空エアロビを楽しむ人々)

柱時計は午後4時を少し回ったあたりを指していた
陽はまだ高く、暮れるまで十分に時間がありそうだ。
タンクトップに短パン姿の男性が現れた。
肩にラジカセを担いでいる。
広場の真ん中で立ち止まると、ラジカセを置いてスイッチを入れた。
軽快な音楽が鳴る。
タンクトップの男性はリズムに乗ってエアロビを踊り始めた。
だんだん人が集まってきて、たちまち200人程の大集団になった。
みんな同じ動きをしている。
老若男女、犬を連れたり、小さな子どもを肩車している人もいる。
30分ほどして音楽が終わった。参加者がラジカセの横に置かれた小箱に小銭を投げ入れていく。
青空エアロビ教室だった。

一方、さらに奥の方では若者たちがサッカーをしていた。
始め12、3人で一つのボールを追いかけていたが、
こちらもじゃんじゃん人数が増えて30人近くまでふくれあがっていた。ゴールらしいものはなく、ペットボトルを2つ間隔を開けて置くことでゴールのかわりにしていた。
点を取ったチームがハイタッチしている。

(写真:Google)

ポル・ポト時代について、カンボジア人が仲間同士で話すことはほとんどないという。
誰が加害者で、被害者だったのかを語らない。
自分の家族を処刑台に送り込んだのはエアロビで隣にいる男かもしれないし、自分が密告したのはハイタッチをしたチームメイトの親戚かもしれない。
異常な時代について市民同士は掘り起こさない。
「裁いても豊かになれないなら、過去は振り返らない」

そういうことなのか。

今もポル・ポト派幹部数名の裁判は終わらない。
老いた被告や生き証人は法廷に立たなくなりつつある。
ある者は死に、ある者は認知に問題ありとされて釈放された。
これは裁きを先延ばしにして幹部が極刑を避けるためなのか。
アメリカ・中国がポル・ポト派を支援した過去を隠すためなのか。
歴史的大虐殺を主導した被疑者の権利を守るカンボジア特別法廷。
二百万人の犠牲者の魂は、被告たちが迎える安らかな死をどのように見届けるのだろうか。
暗すぎる歴史は光が当たらぬまま永久の眠りにつこうとしている。

釈然としない気持ちのままカンボジアを離れることにした。

2013年5月19日日曜日

カンボジア:キリングフィールド ポルポト派による大虐殺②



毎日、荷台に数十人の虜囚(りょしゅう)を乗せたトラックがやってくる。
トラックはゲートをくぐると、急ブレーキをかけて止まる。
荷台から吐き出すようにして虜囚が下ろされる。
彼らは手錠が外されないまま、ブロイラー小屋のような狭い建物に、ブロイラーのように押し込まれた。

「別の場所で働くことになった。」
虜囚は前にいた場所でそう聞かされてここにやってきた。
多くは自分に最後の時が近づいていることを察していた。
拷問や、過酷な労働から逃れられるなら「死」は安らぎに思えた。

毎晩、夜になると大きな音で音楽が流れる。
看守が扉を開ける。中から数人が呼び出された。
呼ばれた者は、胸ポケットの写真を引っ張り出して、そこに映る家族や恋人の顔を目に焼き付けた。
そして残された者に一瞥して鶏小屋をでると、看守とともに暗に消えた。
連れ出された虜囚はある場所に着くと目隠しをされる。
もう何も見えない。
鳴り響く音楽が聞こえるだけ。
看守が腕を引き、10歩くらいのところで地面に膝まずかせた。
何も見えない。
目の前のすえた匂いが鼻を突く。

看守の手にはスコップやバット、金槌。
銃ではない。
それを大きく振りかざした次の瞬間、命を失った体が暗い穴に転がり落ちる。

次の虜囚が連れてこられる。
看守は手に、地元人が鶏の首を切るのに使うトゲのついた植物を握っている。
看守は人間の喉にそれをあてた。
断末魔の叫びは大音量で流れる音楽に全てかき消された。




プノンペンにはS21の他にもう一つ、虐殺の歴史を伝える場所がある。

キリングフィールド。
処刑場だ。
カンボジア国内ではこうしたキリングフィールドが100ヶ所以上見つかっている。

収容所や集団農場で、労働力にならないと判断された人々がここに運ばれた。
また、拷問に耐えきれず、あらぬ罪を認めてしまった多くの民間人もここで処刑された。
俺が訪れたプノンペンのキリングフィールドからは、
すでに9000体近い遺体が見つかっており、
さらに掘れば1万体は挙るだろうと言われている。
しかしその1万体は湖の底、資金が足りず、掘り起こされるめどはたっていない。




辺は所々くぼんでいる。
くぼみは86個ある。
このくぼみは、遺体が埋められていた穴を掘り起こした跡だ。
深くえぐられた地形が30年間の風雨によってなだらかになった。
すでに虜囚を収容していた小屋などは取り払われていて、処刑場を連想させるものは何もない。
緑が生い茂り、風がそよぐ穏やかな場所だ。
歴史はすっかり角を落として丸くなってしまった。



ここを訪れる人々は入場料を支払うとヘッドフォンを渡される。
日本語の解説を聞きながらキリングフィールドを歩く。
歩いていると数字の書かれたプラカードが地面に刺さっている。
その数字を端末に入力すると、自分が今立っている場所で30年前に何が起きたのか、解説が流れる。
ロープでくくられたエリアで何が起こったのか、この土地がどれほど多くの血を吸ってきたのか。
ヘッドフォンの声が指示する通りに地面を見ると、骨や、衣服の切れ端が露出しているのが見えた。

(※注意! ここから、とても生々しい描写が始まります。弱い人は避けて下さい。)


キリングフィールドの中で、ひときわ異様な雰囲気を醸す木がある。
幹が無数のヘンプ(糸で編んだ腕輪)で埋め尽くされている。
訪れた観光客が捧げていく。
ある人はこの木の前に建てられたカードの文字を読んで涙を流している。

ここで起こったことは凄惨極まりない。



兵士は母親の目の前で乳児の両足をつかみ、頭部をこの木の幹に叩きつけた。
まだ柔らかな乳児の頭蓋骨は熟れたトマトのように弾け飛んだ。
幹にはいくつもの髪の毛が残っている。

さらに酷いことに、兵士たちは乳児の頭蓋骨を割ったあとで母親を強姦した。
この木のすぐそばから衣服を剥がされた女性の遺体が数百体見つかっている。





入り口の正面に慰霊塔が立っている。
音声案内に沿ってフィールド内を歩くと、最後にここに戻ってくる。
この慰霊塔はガラス張りになっていて中が透けている。
中はガラスの十数層のタワーになっていて、各層に犠牲者の頭骸骨がおさめられている。中に入ることができる。


中に入って頭蓋骨の破損した箇所を至近距離からみてみると、どんな物を使って撲殺されたのかが分かる。
空気の重さに胸が締め付けられる。
深く息を吸えない。

空洞になった無数の眼に見つめられているようだった。
彼らの悲しみや痛みの遺産から、訪れた人々は何を見い出せるだろう。
砂埃に埋もれさせてはならない遺産。
人類は砂埃を払う手を休めてはいけない。

カンボジアで、また世界各地で起きた戦争や紛争、ホロコースト。
犠牲者たちは、現代を生きる人々が平和の獲得を怠ることを絶対に許さない。
平和の獲得こそ、人間がやめてはならない戦いだ。

2013年4月30日火曜日

カンボジア:プノンペン ポル・ポト派による大虐殺①

このページを開いてくれた皆さん、ありがとうございます。
アジア旅から帰って一と月が経ちました。
日記を書いていると旅を思い出します。
さて、今回はカンボジアで起きたポル・ポト派の大虐殺の史跡を数回に渡ってレポートします。
掲載写真、とても強烈です。骸骨や血の写真が出てきます。
この地で見たものは僕に強い印象を残しました。
施設を歩いていると、こんな二元論的な考えが頭に浮かびました。
「人間は、幸福を追求し、未来へ邁進する傍らで、
絶対的な不幸をも視野に入れていないといけない。」
つまり、豊かな国の人々こそ深く、世界の不幸に取り組む必要があるのです
当時を体験しない僕が異国の惨劇について主観で書くため、
専門的な見識をお持ちの方からの批判もあるかもしれません。
ですが、この旅日記は読者に世界への関心を深めてもらうことを目的にしていて、
その目的に向けて、自分なりに苦悩しながら書いています。
その点、ご理解いただきますようにお願いします。
また、歴史事実の誤認等があればご指摘いただけると幸いです。

大嶋敦志


S21(トゥールスレーン収容所)規則
.質問に対して、きちんと返事をすること。ごまかしてはならない
2.事実を隠蔽してはならない。尋問係を試してはならない。
3.革命の邪魔をしようなどと愚かな考えを持たない。
4.聞かれたことには即座に答える。
5.背徳も反逆も認められない。
6.電気を受けている最中に泣いたり叫んだりしてはならない。
7.何もせず、じっと座ってわたしの指示を待つこと。
指示がなければ大人しく、指示があれば即座にそれを実行すること。反論は認めない。
8.自分の素性を隠してはならない。
9.上記のルールに従わなかったものは何度でも電線の刑に処す。
10.この規則に従わない場合は電流10回か電気ショック5回の刑に処す。


当時、この建物はS21(トゥールスレーン収容所)と呼ばれて、ポル・ポト派が元中学校の校舎を改装した「更生施設」だ。
収容されたのは20000人、生きて出たのは8人。
この施設で、カンボジア人によるカンボジア人に対しての拷問と殺戮が行われた。
尋問員は時には家族や友人に拷問を加え、ありもしない罪を認めさせ、処刑した。
爪を抜き、指を切り落とし、ありとあらゆる苦痛をあたえた。
現在、この施設は博物館として一般に開放されている。
拷問に使われた器具や、人々が収容されていた雑居房、写真など、貴重な資料を見ることができる。
 (独房群)
 (手前の床に付着した血痕が見えるだろうか。)


中を歩くとところどころ床に茶色いシミが付着している。
拷問を受けた人々から落ちた血液だ。
階段の踊り場の壁には弾痕と、同じようなシミが無数に張り付いている。
1979年にベトナム軍によって攻められた時、ポル・ポト兵は逃げる前にここにいた人々を全て殺害した。
壁の傷や滲みはその時のものと思われる。

人間ではなく、鬼の仕業。
そう伝えるのがふさわしい。

館内は息が詰まる。
拷問に傷ついた体を引きずって歩き、独居房でうずくまる犠牲者のうめき声が聞こえてくるようだ。

(この木枠は・・・) 
(このように使われた。)

 (この上のフックに縄をかけ逆さまに人を吊るした。
下の水瓶で受刑者が溺れて気を失うと、尋問員は糞尿を溜めた壷に顔を入れた。
受刑者は刺すような匂いで意識を取り戻した。
そしてまた同じことが繰り返された。)

 (鉄のベッド:この窪みはどのようにできたのだろう。床には赤茶のシミがこびりついている。)


ポル・ポト派を知らない人のために簡単に説明する。
1976年、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュは、国内の混乱に乗じて首都プノンペンを奪い取った。
クメール・ルージュは農業主体の共産主義国家の設立こそユートピアと掲げ、当時の教育の乏しい農民層の支持をすぐに集めた。
「文明は腐敗物だ」と通貨や教育といった社会機能を否定し、都市を破壊し、そこに住む人々を年齢や性別ごとに集団農場に送りこんだ。
多くの家族が引き裂かれた。
クメール・ルージュの革命とは「完全に平等な社会の建設」だ。
もっと言えば原始的な生活だ。
格差なく、最低限のつつましい暮らしが平和をもたらすと考えていた。
そのため前述したとおり、経済や教育など、格差の要因となりうるものを徹底的に規制した。
人々は物々交換で暮らすことをしいられ、過酷な強制労働に従事させられた。
当然こんな人間性を無視した革命、失敗する。
人々の暮らしは苦しくなり、不満が募り始めた。
政権の雲行きが怪しくなり、ポル・ポト派首脳部は焦った。
その結果が市民虐殺だとされる。
政策失敗の原因を、知識人になすり付け、医者、学者、教師をはじめ、一定以上の教育を受けた人々を強制収容所に送り込んだ。
「腐敗した知識をもとに革命の邪魔をしている」として。
(2005年のカンボジア人口ピラミッド。
ちょうど「25〜29歳」以上の人口が異様に少ない。)

この時代にカンボジア人の3分の1以上が「革命」の犠牲になった。
当時のカンボジア人口が800万とされる。
300万人が殺された。(資料によって数は異なる。)
上が現在のカンボジアの年齢別人口統計表。
25才以上の人口が不自然に少ないのが分かる。

プノンペン。
ここはかつて、
ドイツのヒトラーによるユダヤ人迫害や、
中国の毛沢東による文化大革命、
ロシアのスターリンによる大粛清と並んで称される大虐殺が行われた場所。

人間が生み出せるもっとも痛ましい地獄がここにもあった。

つづく

2013年4月2日火曜日

カンボジア:ベンメリア遺跡 「世界のリアル」の至近距離


アンコールワットから40kmにある、森に眠る遺跡「ベンメリア」がヨーロッパ人の狩人に発見されたのは1990年代。
(カンボジア人はもっと前から存在を知っていたので、これは西洋視点での発見時期。)
そして2001年に観光客に開放された。

この遺跡は楽しい。
自然の浸食によって崩壊が進み、遺跡内にはかつての建造物から崩れ落ちた大きな石がうずたかく積みあがっている。
遺跡というより、瓦礫山といった方が近い。
石の山をよじ上って遺跡内を探検するので、アスレチックみたいだ。
遺跡探検を終えると汗だくになるほど、アドベンチャーを体験できる。



ここには宿で知り合った日本人とグループで行った。
ワゴン車とドライバーをみんなでお金を出し合ってハイヤーしたので、一人数百円で済んだ。

朝早くから集まって、1時間かけて赤土の道をすすむ。
途中、茅葺きの家々が連なる集落を通る。
多分、この辺りは電気もない。
家の中のシンプルな暮らしを想像するのが楽しかった。



遺跡の入り口に立つと、奥に石の山が見える。
バタバタと巨石が倒れていて、巨人が暴れたようだった。
ここは「天空の城ラピュタ」のモデルになったらしい。
たしかにここは「自然と文明」というテーマで哲学するのにはうってつけの場所だ。
奥に行くと、植物と遺跡が絡まりあう異様な光景が広がる。
石を踏んづけながらさらに奥にいく。








玄関をくぐり、遺跡の中に入ろうとした時、岩の上でおばちゃんがこっちよと手招きをしてきた。
周りには彼女と同じジャケットを来た人が何人もいる。
多分、市のガイドか何かなのだろう。
でも後で多額のチップを要求される可能性があるので注意は必要だ。
着いていくかどうかグループで話し合った。
人数がいたので、どうにかなるさ、と彼女についていくことにした。






おばちゃんは軽快なステップで、石の山を登っていく。
熟練の眼で、ここは危ないとか、ここは大丈夫だとか見分けていく。
彼女に案内されるまま、塀の上をつたい、ガジュマロの枝でブランコをし、高さ15mの石山に登った。
遺跡を遊び場にしている地元の子どもが岩と岩の間をジャンプする。
高い所で片足立ちをして、見て見て〜と観光客に自慢している。
こんな贅沢なアスレチック、きっと世界中どこにもない。


おばちゃんに連れられるまま、ベンメリアの遺跡を登ったり降りたりしているうちに、少し開けた場所に出た。
あたりは木や草がなく、砂地だ。
おばちゃんがすっと立ち止まってこちらを振り返り、地面を指差した。
そこは窪んでいる。
「ランマイ・・・」
おばちゃんはそう言った。
最初、何の事だか分からなかった。
俺たちがキョトンとしていると、彼女はズボンの裾をめくった。
その部位は光を反射している。

義足だった。

ランマイとはランド・マインのこと。
地雷。
彼女の足は地雷によって吹き飛ばされていた。
こんな至近距離に、メディアで見た戦争がある。

彼女はニコッと微笑むと、また俺たちのガイドを続けた。
石の山を平気な顔をして登っていく。
この人はとてつもなく強い。
最初に金の心配をした自分が恥ずかしくなった。

カンボジアは内戦の傷がまだ癒えていない。
戦中600万個埋められた地雷は、撤去が進められた現在でも毎年200人以上の手足をもぎ取り、命をむしり取っている。

カンボジア内戦について知る必要性を感じた。
内戦とはつまり、カンボジア人がカンボジア人を殺すということ。

明日、カンボジアの首都プノンペンに行く。
そこには、ポル・ポト派による虐殺の歴史が生傷のまま残されている。