2013年2月7日木曜日

マレーシア:クアラルンプール 始めてのイスラム国




マレーシアのクアラルンプール空港に着いたのは朝の6:30だった
辺りはまだ暗い、蒸し暑い。
冬の日本から着てきたダウンジャケットの中は汗でびっしょり。
旅の間どうすんだよこのダウン・ジャケット・・・。
バックパックを受け取ると、すぐさまダウンやトレーナーを奥にしまい、Tシャツになった。
7:00の人のいない空港を出て、バスで1時間。
首都クアラルンプールの都心部に向かった。
クアラルンプールは都市化が進んでいる。
清潔でスタイリッシュな感じがする。
鉄道網が発達していて、旅に慣れていない人にも分かりやすい。



マレーシアは様々な人種が混じって国を形成している。
マレー民族、華僑、インディオを町中で見る。
彼らがどの民族か肌の色ではっきり分かる。
宗教色も豊かだ。
頭に布を被ったムスリム、額に印を付けたインディオ、袈裟を着た僧侶、スーツを着たビジネスマン。
女性限定車両が厳格に守られていて、電車の中で恋人同士がいちゃつきが禁止されている。
でも、俺がイメージしていたイスラムの窮屈なイメージはなかった。
そこには着ているものは違くても、俺たちと同じように平和に暮らす人々がいる。


ガイドブックに、チャイナタウンに安宿がたくさんあると書いてあったので、そこで宿を探すことにした。
マレーシアのチャイナタウンの第一印象を正直にいうと「汚い」「臭い」「日本人がいなくて不安」
市街地とこれほど違うのかと驚く。
濁った水たまり、鼻を通って肺に溜まる大気中のスス。

息苦しい。
生き苦しい。

べとつく暑さの中、本に載っていたホテルを見つけ出し、チェックイン。
フロントには怪しいインド人オーナーと、片目が潰れたニューハーフがいた。
少し心配だったが、とにかく荷物を降ろしたくて、そこに決めた。
ドアにかける錠前も持ってきているから大丈夫だろう。
せめて、シングルルームにした。
空調はエアコンかファンか選べる。
安い800円のファンの部屋にした。
荷物を置くと、とにかく腹が減っていたので飯を食いに出かけた。
チャイナタウンで繁盛していそうな店を探す。
お客が入っていない店は食品も古くなっている可能性があるので危ない。
水道水は飲まないこと、ジュースも氷抜きで頼むこと。
これはどのガイドブックにも書いてある。

フードコートみたいな所を見つけてそこに入った。
地元の人を見かけるので、さほど高くないだろう。
席に着くと、せっかくマレーシアに来たのに、タイ料理トムヤムクンを頼んだ。
メニューで理解できるのがそれしかなかったからだ。
どんぶりに入ったトムヤムクンがくると、一口すすった。辛い。さすが・・・。
毛穴という毛穴が大噴火する。
添え付きの辛みを入れなくても辛い。
辛さは舌の痛覚で感じるというけど、まさにそれ、痛い。
でも、すごくうまい。
うまいが、胃の負担を考えてスープは半分くらい残した。

腹が満たされると、ホテルに帰った。
部屋に入るとベッドに突っ伏してそのまま眠ってしまった。
4時間、吸い込まれるように眠った。
シングルにしておいてよかった。
何も心配せず、荷物を拡げたまんま寝ることができた。
旅に出る前の10日間はすごく忙しくて、睡眠もままならなかった。
赤道から500kmの固いベッドが、東京人の労をねぎらってくれた。



2013年2月6日水曜日

さあ、冒険の始まり



(出発前日の虹、縁起が良い!)

去年の7月頃からの夢がついに叶うときがきた。
アジア放浪。
しかし、もともと気が小さいので、出発の数日前から不安ばかりがよぎって落ち着かない。
出発当日も「こんなときあんなとき」に備えて、荷物が増えていく。
家を出た時も、忘れ物をしていないか心配でたまらなかった。
前日に準備したときよりも荷物がずんと重くなった。
パソコンの重さだ。
「テクノロジー」は旅人のリュックの中では「コレステロール」になる。
18kgの荷物とギターをもって羽田を目指す。
貧乏旅はすでに始まっている。
リムジンバスなどもちろん使わない。
電車を乗り継いでいく。

フライトのチェックインはネットですませておいた。
時間ギリギリだったので、飛行機に乗るまでせわしなかった。
カウンターで荷物を預け、出国ゲートをくぐり、飛行機のシートに座る。
座席に座ってふ〜っと息を吐く。
俺は通路側をとっていて、何となく窓の方を見た。
視界に移ったのは窓の外の景色ではなく、隣に座っていた美しいヨーロピアンの山ガールだった。
これだけ綺麗だと、話しかけるのにちょっと怖じ気づく。


(エアアジアのCAさん、ユニフォームは悩殺的な赤)

エアアジアはその安さが魅力だ。
しかしシートは身長183cmの俺には狭い。
通路側の席にして正解だった。
通路に足を伸ばしてくつろぐ。
予定よりも10分早くテイクオフするというアナウンスが流れた。
時刻になると飛行機はポート内を進む。
機体はやがて滑走路の直線の端で停止した。
ぐお〜〜〜〜っというエンジンの重低音が響く。
ブレーキが解除されて、機体はまっすぐ進みだした。
どんどん加速する、背中とシートが張り付く。
窓の外の水平線が傾いた。

冒険が始まった。

2013年1月29日火曜日

2月から旅に出ます。




2月上旬から1ヶ月ちょいアジアを旅します
ギターを弾いて歌ったり  絵を描いてきます
旅をマレーシアから始めることだけは決めているのですが
あとは風の向くままに

旅の目的は何なのか
 あまり上手に答えられません
旅をすることが自然なことに感じているからです

食べる
飲む
眠る
愛する
旅をする
美しいものを見る/感じる
人とつながっていく

こんなことが潤いをもって生きていくのには欠かせないからだと
今のところそう答えています





2012年3月17日土曜日

♫ 手打ちうどんのワークショップ@茨城ブラジル学校 ♫


2/17(金)、
茨城のブラジル学校「Institute Educare」で
手打ちうどんのワークショップをしてきました。
このワークショップ、かれこれ、もう各地で7回目です。



僕が手打ちうどんのワークショップを薦める理由は、

①簡単で
②おいしくて
③楽しい
からです

小麦粉だけで作れて、
足で踏んだときの心地良さったらもうたまらん!
という感じなのです^^




今回、主催側は僕を含めて5人を予定していましたが、
朝6時、山形から車で来るはずのK君から
「雪道で滑ってぶつかっちゃった♥」と連絡が入り、
一人マイナスです。


☆主催側参加者☆

①みほ(いつもこの「ジャンボ小学生」に付き合ってくれてありがとう!)

②せいおーさん(お友達になれて嬉しいです!)

③ジョアゥン(新生活がんばれ!もう一杯くらいビールおごってくれ笑)

④しんのすけくん(今回突然の参加ありがとう!またあそぼう)

④僕
の5人でした。


あれこれあって、予定から1時間遅れて現場に到着し、
マリア・シズコ校長に「あらら、ブラジル時間ね」となじられ、
エヘヘと誤摩化しつつ校舎へ。


(下駄箱なつかしぃ!)



かつては教会幼稚園だったという校舎の佇まいがかわいいです。
赤茶けたレンガと、清々しい空の青が、嬉しくさせます。


マリア・シズコ校長からおいしい給食(本当に?)をごちそうになり、



さあさあ、手打ちうどんです。
中高生が20人程でした。
簡単に挨拶をして、早速始めます。



作り方は簡単!

・1kgの小麦粉に
・塩を50gを入れて、捏ねながら
・水500gをゆっくりと注ぎます。


ダマがなくなり、水分が生地に均質になじんで、
手にくっつかなくなったら、


ビニール袋に入れて踏みます。


いやぁ、血気盛んな男たちは踏めと言ったのに、
「北斗の拳」ばりにパンチし始めています(^^)
(穴があいて踏んだら足の匂いがつくぞー!)

(だから踏むんだってば^^;)

ピザ生地のように薄くなったら、
生地をたたんでボールにして、また踏みます。
これを2,3回繰り返したら、
20分くらい寝かせます。



生地を寝かせている間に歌いました。
Michael Jackson「Bilie Jean」はテッパンです。



さて、生地を寝かせたら薄く伸ばして


切ります。出来るだけ細く、均等に。
切ったうどんをたっぷりのお湯でゆでます。
目安は10分、芯の塩気が抜けたくらいが食べごろです。




今回、2つ反省点があります。

①うどんをゆでている時間が長く、生徒たちがダレてしまったこと。
(茹で時間と平行したアクティビティが必要。)



②味付けがブラジル人好みではなかった。
(なめこおろしはやっぱハードルが高かった^^;えへへ)

いやぁ、とにかくみんながテキパキと臨機応変に働いてくれて、
うどんはおいしくでき、
生徒たちにも楽しんでもらえたようです。
本当にありがとう!!

次は寿司を作ることを約束してきました。

Até o próximo!
(また会う日まで)



写真:江崎聖桜氏
(彼女の写真はかっこいいね!俺はこれが好き^^)


2012年2月27日月曜日

♫大阪ポルトガル語スピーチコンテストで準優勝「大阪市長賞」を受賞しました!♫


たくさんの仲間が応援してくれたおかげで、
何人もの人達が力を貸してくれたおかげで、
とても嬉しい賞をいただきました。
大阪・サンパウロ姉妹都市協会主催のポルトガル語スピーチコンテストの準優勝
「大阪市長賞」です。
惜しくも1位の商品「日本ブラジル往復航空券」は逃しましたが、
2位の「図書券一万円分」に自分のお金を合わせて、
ポルトガル語の電子辞書を買いました(^^)
これで来年こそはブラジル行きを手に入れたいと思います。

出場資格は「ブラジルでの滞在一年以内でポルトガル語が母語でない人」でした。
ポルトガル語がわかる方には「あれれ」な箇所もあると思いますが、
みなさん、寛大な心でご覧下さい。
下に日本語での原稿を記載します。




Vida de Alegría(喜びある人生)

東京都 大嶋敦志
CRI-チルドレンズ・リソース・インターナショナル

「始めに、僕のポルトガル語は『壊れたポルトガル語』です。
皆さん、寛大な心で聞いて下さい。

2009年の1年間のブラジル滞在が僕の新しい人生の始まりだった。
それまで僕はミュージシャン活動をしていた。
ヒットに恵まれず、
コマーシャル・ミュージックを作りつづけることに疲れ、
くだらないことが理由で事務所を辞めた。

新しい人生を踏み出すために思い切って海外に住んでみることを決めた。
ブラジルのファヴェーラ(スラム)でボランティア活動をすることにした。

素晴らしい国だった。
食べ物が安くておいしくて、人々は温かい。
貧しくても自尊心をもって生きる人々。
そして豊かなカルチャー。 
僕が友達になった世界的な音楽の才能がファヴェーラで学童保育の先生をして、
少ない収入で生き生きと暮らしている。
彼は僕に言った。
「名声よりも喜びのある人生を生きたいんだ。
喜びなしで生きては駄目だ。」
 
僕はいつもブラジルと日本の生活の違いを感じていた。
お金はあっても窮屈に暮らす日本人の生活と、
お金はなくとものびのびと暮らすブラジル人の生活。

帰国して僕は今、ブラジル人教育機関を支援する団体で働いている。
ブラジルに恩返しがしたいと思っている。
この仕事を始めて、今まで知らなかった外国人居住者を取り巻く日本の社会的性質をたくさん知った。
基本的に日本人は海外から来る人に対して友好的だと思う。
でも、日本に住む外国人に対しては少し違う。
非友好的な表情を見せることがある。
この環境の中で、多くの外国にルーツを持つ子どもが
自分のIdentityに自信を持てず、
不安を抱えて暮らしている。

僕がブラジルで見たブラジル人の燦々とした表情と、
日本で見るブラジル人の子どもの表情は違う。
日本人の子よりも礼儀正しい子がたくさんいる。
周囲の視線に対して敏感なのかもしれない。

去年、キャンプやうどんのワークショップを開いて、
彼らと日本人大学生の交流の場を作った。
ブラジル人の子どもに、日本に自分たちの居場所があることを知ってもらうためにだ。

彼らは、自分達と積極的に接しようする日本人と出会う機会があまりなかったのだろう、
恥じらいながらも楽しそうで、
日本人学生のおかしな発音の「ボンジーア」を子どもらしい緩んだ表情で聞いていた。

そして最終日、お別れの時、
その場にいたみんながそこで体験した素晴らしいことに感動して泣いていた。

日本人大学生達にも影響があった。
彼らはブラジル人の「愛に満ちた心」や、
「喜びに満たされた生き方」を感じ取った。

僕は信じている。
もし、この国に住む外国にルーツをもつ人々が
差別や偏見におびえることなく、
自信を持って個性を発揮できる日がくれば、
日本はもっと心の豊かな国になる。

最後に、僕の友達であるブラジル人学校の生徒達に伝えたい。
僕が今日『壊れたポルトガル語』でここに立つのは、
言葉や文化の違いとどう向き合うかを見せたかったからだ。
僕はみんなで日本の未来を築いていきたいと思っている。
ぜひ、恥ずかしがらずに日本語を勉強して、
広く大きな視野で自分の進路を歩んでいって欲しい。

君たちの心は美しい。
ブラジル人の愛に満ちた感性を、
君たちの口から日本の人たちに伝えていって下さい。

ありがとう。」